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“私の”敏子さん

「これまでお会いしたなかで、最も強いオーラを感じた人は?」

こう質問されたとしたら、美輪明宏さんやウラジーミル・マラーホフさんのお顔も浮かぶのですが、やはり私は岡本敏子さんと答えます。
画家・岡本太郎さんの養女として、半世紀以上もの間を共に暮らし、働いた、太郎さんの“戦友”です。


お目にかかったのはほんの一度きり、それも小規模の座談会で、私は敏子さんの目の前の席に座っていました。

30年以上もの長きに渡り、メキシコで行方不明になっていた太郎さんの壁画《明日の神話》が奇跡的に発見され、日本への移送・修復計画がいよいよ本格的になった頃です。
そのため、その日の話題も《明日の神話》にまつわることが中心でした。

「最後の大仕事」とのご本人のお言葉通り、敏子さんは他の誰にも優る尽力ぶりでこのプロジェクトに取り組み、ほぼ成功したことを見届けてから、ご自宅で静かに息を引き取られました。

敏子さんの訃報に接した時の、言いようのない衝撃を未だに覚えています。
あの座談会からほんの数ヶ月で、敏子さんがもうこの世にいらっしゃらないことが、にわかには信じられませんでした。


あの日、私たちの前に現れた敏子さんは、あらゆるものを超越しておられるかのように見えました。

78歳という年齢が無意味であったことは、そこにいた誰もが認めると思います。
まだ子どものようだった私も含め、その場の誰よりお若いだけでなく、その圧倒的なエネルギーは、ある種の人間離れを思わせるほどでした。

いらっしゃるだけで部屋の空気と密度が変わり、全てがそちらへ持っていかれる。全員がその人の表情や動きを追い、取り憑かれたように魅了される。こんな経験は、私には後にも先にもありません。

しかもそれは緊張を強いるものでなく、強いけれど繊細で、あたたかさに満ち、純粋で清らかでした。
我欲がなく、愛情とひたむきさしか持っていない、それまでメディアや本を通じて触れていた敏子さんが、そのまま目の前に存在なさっていました。
それは、私には奇跡のように感動的なことでした。

そこで敏子さんが語ったことの細部は、残念ながら今ではおぼろげな記憶しかありません。
けれども私は確かにその場におり、あの類い稀なる人と直に接していたのだという、鮮烈な記憶だけで十分です。
敏子さんの、光を集めて輝く宝石なさがらの瞳を思い出しつつ、そう感じます。


なぜ急にこんな回想を始めたかというと、《美術家・弓指寛治による『弓指寛治“饗宴”』展が岡本太郎記念館で開催中》というニュースを読んだからです。

この美術展は、太郎さんの芸術や人間性を、敏子さんの視点で捉えなおそうとの意図があるそうです。

弓指さんが描く日常の中の太郎さんと、“太郎巫女”である敏子さん。
それらの絵が太郎さんの作品とともに、かつて実際にお二人の住居であった記念館に並ぶのですから、相当に見応えあるものに違いありません。

個人的には、敏子さんを中心として展開された『明日の神話』に関する物語が描かれている、というところに心をそそられます。
それらの絵の前に立てば、あの壁画を「岡本太郎の最高傑作」と語った敏子さんと、もう一度出会い直せるかもしれませんから。


私の印象や思い出の話だけでは片手落ちになりそうなため、敏子さんご本人による、いくつかの言葉を最後にご紹介しておくこととします。

◇◇◇◇

太郎さんに好きだって言われたことなんか一度もなかった。言われなきゃわからないようじゃ、はじめからやめちまった方がいいわよ。

弱くたっていい。そういう自分のまま、貫き通すんだ、と覚悟を決めるのよ。

私は岡本太郎とともに五十年走ってきた。
自分らしくとか、何が生き甲斐かなんて考えてるヒマはなかった。十分に、ギリギリに生きた。
極限まで。

なによりも、いまが大事なのよ。いま、この瞬間に全存在がパッと輝くの。




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