Peace in a Bottle
「何か漬け始めたら人生折り返し」
安田弘之さんの漫画『ちひろさん』で、主人公のちひろさんが口にするこの言葉を読んだ時、思わず笑ってしまいました。
まさに“わかりみが深かった”からです。
その次に思ったのが、どうしよう、じゃあ自分はもうまずいかもしれない、ということでした。
私はとにかく何かを漬けるのが好きで、今も梅ジュース、ピクルスにレモン蜂蜜にハーブオイルと、結構な種類のものを瓶詰めにしています。
これは私の人生も早々と折り返しに入っているのでは、と一旦は危惧したものの、よく考えれてみれば、私のこの習性は今に始まったことではありません。
おそらく小学校の終わり頃から、ベリーのシロップやレモン蜂蜜などを作っていたため、そこから考えると、折り返し地点どころか終点もとうに過ぎているはず。
そのため、幸いにも今回ばかりはちひろさんの名言も私には無効でしたが、そこで言われている意味は理解できます。
何かを漬けるというと、どうしてもある年齢を超えた女性が、背を丸め黙々と地味な作業をしている、という図が浮かびがちだからです。
けれどいつの世もそんな食べものが人を支えてきましたし、特に近代の西洋では、食料貯蔵庫を保存食品でいっぱいにすることに、並々ならぬ努力が注がれてきたようです。
『素晴らしき保存食』という料理本の著者ヘレン・ウィッティは「誰もが、どんなにささやかであろうと、自分なりの食料戸棚を持つべきだ」と書いており、それはただ飢えを満たすためでなく、心の充足のためでもあったのでしょう。
ビネガー漬け、オイル漬け、蜂蜜漬け、ワイン漬け、ブランディ漬けなどの小さな瓶が、きれいなリボンや洒落たラベル、レースの帽子で飾られてチーク材の棚に整然と並んでいる。
ヴィクトリア時代の本の挿絵にありそうな、上品で幸福な台所の光景は、今でも人の憧れをかき立てます。
夏の暑い日に、そんな瓶から蜂蜜ジンジャーシロップをグラスに垂らし、氷と炭酸水、ちぎりたてのミントの葉を加えて自家製ジンジャエールを楽しむのは、最高の贅沢です。
オリーブオイルに漬け込んだ天日干しのドライトマトとタイムを素麺に添えてみるのも、趣向が変わって美味しそう。
スパイスの効いたブルーベリーは、チャツネやグリーンリーフと混ぜてサラダにしてみたり。
それらは心の浮き立つような想像ですが、反対に、何ともやるせない食糧棚も存在します。
外国のドキュメンタリー番組を観ていた時、ある人のインタビューのため、記者がその人の自宅を訪問する、という場面がありました。
そこで記者は、驚くべき光景を目にします。
その人の家の壁という壁に、天井まで届くような戸棚が備え付けられ、そこに隙間なくぎっしりと瓶が並んでいるのです。
中身は肉、魚、野菜、果物、甘味、スパイス、ペーストやジャム。
皆、保存用に作られた食品です。
しかも床の上には、小麦粉に塩や砂糖、水などがみっしりと詰まった木箱がいくつも置かれていました。
住居というより、まるで食料貯蔵庫の中に人が住んでいるような有様です。
圧倒された記者が話を向けると、その家に暮らす女性は静かに微笑みました。
「こんなにどうするんだって思うでしょう?ここには年取った夫婦二人しかいないのに。でもね、こうでもないと私たちは安心できないんです。もう二度と、何かあろうと決してひもじい思いをしたくない。それが私たちの何よりの願いです」
かたわらに立つ彼女の夫も、黙って笑みを浮かべています。
二人は共に、第二次大戦中に迫害を受け、逃亡生活と強制収容所を生き延びた過去を持っていました。
それが二人の中の何かを永遠に変え、どうしようもない飢えと欠乏への恐怖が豊富な瓶詰めに結びついているのなら、どんなに美味しそうであっても、少しもうらやましくはなくなります。
常軌を逸した量の食べものが傍らになければ安心して生きてもいけないことに、人が人に対して犯す罪と闇の深さを感じます。
それに引き換え、私の瓶詰めへの愛は気楽なものです。
けれど考えてみると、何かを漬けるということは、手間暇だけでなく時間をかけるということです。
もし明日、それとも明後日、平穏な日々が途切れると知ったなら、私は楽しみのための瓶詰めなど作りません。
もっと軽くて日持ちする、実用的な非常食作りに追われるでしょう。
瓶詰めの保存食を仕込み、気長にその熟成を待つことは、これからも変わらない日常が続くこと、平和への信頼があってこそ成り立つものだと、あらためて気がつきました。
さまざまな苦境にある国の人々は、きょう瓶詰を新たに作り、それを味わう日を夢見ることも簡単ではないはずです。
そうであれば、何かを漬けて食べるというのは、この上なく幸福で平和的な行為に思えてきます。
出来上がったばかりのさくらんぼとブルーベリーのビネガーサイダーを味わいながら、そんなことを考えた午後でした。
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