ポケットの中には
緊急事態宣言が出されて、已む無く外食に出掛けても、酒なく、8時までなので、ホテルにも早々戻る。酔っ払うことなく、早々と帰還するので、寝るまでの時間に余裕があり、これこれで悪くない。
この日は先輩たちとヌーベルシノワの店に行った。いつもなら、もう一軒となるところだが、美味しく料理をいただいて無事にお開きになった。
「そうそう、これ。朝に食べなさい。ビタミンCを取るには、これが一番だから」と、先輩の一人が私のジャケットのポケットに蜜柑を入れる。「皮が簡単に剥ける国産のだから、忘れず食べるんだよ。」
地下鉄に乗り、コンビニに寄り、ロビーでサービスのコーヒーを貰い、ホテルの部屋に戻る。
ジャケットをクローゼットに仕舞おうとして、ポケットの蜜柑に気づく。ベッドの上に置いてみる。つやつやとオレンジ色が美しい。
この夜のように素面の時には、問題はない。
以前にこんなことがあった。
ある朝、ホテルを出て、約束の場所に向かうために地下鉄に乗った。気持ち良い朝であった。何もかもうまく行きそうな気分だった。
つり革を持ちながら、ふと、ジャケットのポケットが妙に膨らんでいることに気づいた。
焦りながら、ポケットに手を入れた。丸いざらざらした手触りがした。
明らかに卵である。なぜか卵が、そのままポケットに入っている。
これはまずい。ゆで卵ならば良いが、万が一、生卵ならば、これは大変な問題である。なにしろ通勤時間帯の東京の地下鉄である。手触りで判断しようとしたが、無論、わかる訳がない。しかし、どうして卵が入っているのか。さっきまでの余裕は霧散してしまった。
慎重に人混みを抜け、時間に余裕があったので、カフェに寄り、コーヒーのトレイの上に、卵も載せた。コーヒーを飲みながら、試しに卵をクルクル回してみた。ゆで卵である。良かった。
クルクルと回る卵を眺めていて、思い出した。昨夜、最後に行ったバーで、知り合いのバーテンダーが「明日の朝に」とゆで卵をくれたのだった。出所が分かれば安心である。何食わぬ顔で、ゆで卵を食べ、コーヒーを飲んでその店を後にした。
その後も、しばしば覚えのないものがポケットから出てきた。しかし、あの卵ほど驚いたことはない。