銃座ピックアップトラック2015-02-23_14

ISを、「狂信的なテロ集団」という言葉で片づけていいのか

IS(「イスラム国」とも表記される)はなぜ、中東の少数派宗教集団であるヤジーディを殺害したり、特に女性を性奴隷にしたりしたのだろうか。ざっくり言えば、ISをはじめとするイスラム教のサラフィー主義(超保守主義)は、多神教徒や、偶像崇拝をする人々を敵視する考えを持っているからだ、といえる。

多神教や偶像崇拝の否定は、一神教であり偶像崇拝を否定するイスラム教という宗教の基本ともいえる。もちろん、だからといって、イスラム教徒みんなが、ヤジーディを殺害したり奴隷にする、という行動をとるわけではない。実際に行動に移した、という意味では、ISは例外的な集団ではある。

だからISについて世間一般では、「狂信的なテロ集団」という理解がなされる。確かに、日本人を含めた「異教徒」を斬首したり、火あぶりにしたりして殺害しているシーンの映像を、インターネットにアップしたりするなど、常軌を逸脱した残虐性は「狂気」以外の何ものでもない。

ただ、その「狂信的」な部分をクローズアップして見て、理解不能な行動だとかたずけてしまうのはどうかと思う。そうではなく、同じクローズアップするにしても、ISがとっている行動の基底にある「論理」を丹念に探っていく作業が必要だ。ISが引き起こした数々の犯罪を、再び起こさせないためには、そこが大事になってくる。

「こんな残虐行為を行うISはイスラム教徒ではない」「ISとイスラム教を結びつけて語られるのは迷惑だ」というイスラム教徒の声が多くあることは知っている。しかし、少なくともISが自分たちの行動を正当化するために活用しているのは、聖典コーランをはじめとしたイスラム教の考え方であることも動かしがたい事実だ。

「ISはイスラム教とはなんの関係もない」と切り離すのは、この問題をわい小化してしまうことにつながるのではないか。ISの犯罪の責任を一般のイスラム教徒が負うべきだ、と言っているわけではもちろんない。しかし、ISがどういう論理でヤジーディに迫害を加えていたのかについて、イスラム教徒も目をそむけずに直視すべきだろう。

この回では、ISがヤジーディに対して行った残虐行為のうち、女性を「性奴隷」として拉致し、性暴力をふるった点に絞って、なぜISがそうした行動をとったのか、彼らの行動の背景にある「論理」を探ってみたい。

ISは2014年8月にイラク北西部シンジャール地方に侵攻した際、拘束したヤジーディの男性の多くを銃殺し、特定の年齢層の女性を性奴隷とするために拉致した。いまだ全容はつかめていないが、1万人以上のヤジーディが殺害あるいは拉致されたとする研究結果もある。

ISが、ヤジーディ女性を性奴隷とした根拠はどんなものだろうか。ひとつのヒントはISが発行していた機関紙に掲載された1つの記事の中にある。機関紙の名前は「ダービク」といい、2014年7月に第1号が発行された。インターネット上でPDFファイルの形で広範にばらまかれた。

ヤジーディの処遇について言及があったのは、2014年10月に発行された第4号だった。

記事はまず、ヤジーディについて「今日まで彼らが存続し続けていることは、ムスリム(イスラム教徒)が疑問を投げかけるべき問題だ」と強い敵意を示している。その根拠は、イスラム教の聖典コーランにあるのだという。

ISはヤジーディを多神教徒とみなしている。コーランには、多神教徒の殺害を呼びかけるくだりがある。

「神聖な月が過ぎたら、多神教徒を見つけ次第に殺しなさい。また、彼らを捕虜にして閉じ込め、あらゆる策力をもって彼らを待ち伏せしなさい。しかし、もし、彼らが悔い改め、礼拝を守り、喜捨を差し出すなら、彼らの道を開いてやりなさい。実に神は寛容で慈悲深いお方である」(コーラン第9章5節)

ISは上記のコーランの1節をヤジーディ迫害の根拠にしていることは確かだろう。ダービク4号の記事には、以下のような記述がある。

「ヤジーディの信仰は、真理から非常に逸脱したものであり、キリスト教徒ですら、彼らを悪魔崇拝だとみなしてきた。オバマ米大統領が、この悪魔崇拝者をイラクとシリアへの介入の口実にしたことは大変皮肉なことだ」(ダービク第4号「奴隷制の復活」)

キリスト教徒も悪魔崇拝者とみなすヤジーディ救援のため、米国が軍を動員したのは、いかがなものか、と言っている訳だ。ヤジーディを異端視しているのは、自分たちだけではない、一般のイスラム教徒どころか、キリスト教徒ですら、「悪魔崇拝」だとみなしている。記事はそんなことも書いて、自分たちのヤジーディ観は極端なものではない、と正当化しようとしている。

記事はさらに、ヤジーディ女性の具体的な扱いについての議論に入っていく。結論を導き出すために、ISはイスラム法学を学ぶ学生が、この問題を精査したと強調する。

その記事によると、ヤジーディが「最初から偶像・多神教崇拝者だった」のか、それとも「イスラム教徒だったのが棄教した」のかで、処遇が違ってくるのだという。

具体的にいうと、元はイスラム教徒で、のちに信仰を捨てた「棄教者」であれば、女性を奴隷にすることはできないが、最初から多神教徒なのであれば、奴隷にすることが可能だとする見解を示す。

「ヤジーディの女性は、イスラム法学者の多数が『奴隷にできない』としている女性棄教者(イスラム教シーア派、アラウィー派、ドゥルーズ派、イスマイリ派)と異なり、奴隷にすることができる」

記事は、そう結論づける。イスラム教にはさまざまな流派がある。ISは、スンニ派の中でも厳格な人々のカテゴリーである「サラフィー主義者」に位置づけられることが多い。記事は、「シーア派」「アラウィー派」「ドゥルーズ派」「イスマイル派」を「棄教者=イスラム教を捨ててしまった者」と決めつける。いずれもスンニ派、特にサラフィー主義者からみると「異端派」に位置づけられる。

ちなみに、シーア派はイスラム教の少数派のうち最大勢力。イスラム教徒全体の中では、人口の1割程度だが、イランでは人口の約9割、イラクの約6割を占める。アラウィー派はシリアで人口の約1割を占めるとされる。ドゥルーズ派はシリア周辺などにいる。

ヤジーディは、そうしたイスラム教の「異端派」に入れられるのではなく、最初から別の宗教でイスラム教が邪教視する「多神教徒」であると、記事で断定している訳だ。

こうしたISの「異端派」の分類は、彼らなりの一貫した解釈に基づいているようにも見えるのだが、果たしてそうなのだろうか。

記事が発表されたのは2014年8月のヤジーディへの攻撃から2か月後。ISの新本拠地になったイラク北部モスルから遠くないシンジャール地区に暮らし、イスラム教徒の一般住民からも異端視されることも多く孤立しがちなヤジーディを狙い打ちにしたことを単に正当化するためだけに即席で作り上げたロジックであるようにも見える。

「ヤジーディの女性と子供はシャリーアに従って、まずその5分の1はIS当局にフムス(宗教税)として納められ、残りはシンジャール作戦に加わった戦闘員に分配された」

奴隷にされたヤジーディ女性の「配分」について、2割をイマーム(この場合、ISの指導者、バグダーディを指すか)に納め、残りがイラクやシリアで戦うIS戦闘員に分配されたと記事はいう。奴隷にするためには、女性たちがイスラム教に改宗する必要があるが、記事は、「多くの多神教徒たちは自主的にイスラム教を受け入れた」としている。

全体として記事は、ISがイスラム教の教えに適切に従った形で、ヤジーディの女性を奴隷にしたという主張を展開しているわけだ。

「(ヤジーディ女性を奴隷にする際)多くのルールが守られている。母親と小さな子供を分離しないことなどだ」

小さな子供がいる母親は、子供も一緒に連れていく…こんなことを大真面目に書いている。暴力的に人間を拉致して拘束し、性暴力を振るうという、行為に、何の良心の呵責も表していない。

こうした人間、集団が存在していることをどう考えたらいいのだろうか。日本人は、仏教も日本の伝統的な信仰も、イスラム教などの一神教の視点からみれば「多神教」のカテゴリーに入るのが一般的だ。多神教であるがゆえに、ISに殺害されたり、性奴隷にされたヤジーディの問題に、日本人が無関心でいられるとは到底、思えない。

ヤジーディの問題を考えるための「とっかかり」となりそうな映画の日本公開が、今月以降次々に始まる。まず、ヤジーディの女性達の、ISとの戦いを描くフィクション映画「ババールの涙」(コムストック・グループ+ツイン配給)が、1月19日から始まった。

さらにイラクでISに拉致されて性奴隷となった女性、ナディア・ムラードさんを主人公としたドキュメンタリー映画「ナディアの誓い」(ユナイテッド・ピープル配給)が、2月1日から、東京・吉祥寺の「アップリンク吉祥寺」で始まる。

ナディアさんの自伝「THE LAST GIRL」(東洋館)も発売され、書店に並んでいる。

こうした映画、書籍に触れることは、ISの暴力の問題が、必ずしも遠い中東の出来事ではないことを知る、よい機会になるのではないか。

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