世界のエスニックタウンを食べ歩くわけ/比呂啓さんに聞く
各地のエスニックタウンを食べ歩いて、その様子を撮影し番組にして、YouTubeチャンネルにアップしている映像作家の比呂啓(ヒロケイ)さん。NHKワールドの番組制作に携わるかたわら、アメリカ、中国、イラク、セルビア、日本と、世界をまたにかけて食べまわる。そのあくなき探求心の源泉は何なのだろうと、つねづね思っていた。その比呂さんを、1日「カフェバグダッド」に招き、「移民のるつぼ」米ニューヨークで訪ね歩いたエスニックタウンでのエピソードや、帰国後にはじめたYouTubeチャンネル「エスニック・ネイバーフッド」のコンセプトなどについて、じっくりと公開インタビューをした。聞き手は、カフェバグダッド店主(以下、CBと表記)。新型コロナウィルスの関係で、恒例のトルコ・コーヒーの提供は中止したが、参加した10数人が、和やかな空気の中で、比呂さんの話に熱心に聞き入った。
エスニック飯「月の半分」
【CB】では、どうも、比呂啓さん、ありがとうございます。比呂さんのことをご存知の人は多いと思うんですけど、移民というか、エスニックタウンの…
【比呂】今は、日本に住む移民だけじゃなくて全世界に住む移民の方々に興味があって、そういう方々がどういう生活をしているのかというのが、僕の中で大きなテーマになっています。
【CB】今は日本にお住まいですけど、月にどれぐらい「エスニック飯」を食べているんですか?
【比呂】どのぐらいなんですかね? 暇さえあったら、そういうレストランに行っているんですけれど、特に仕事、つまりNHKの番組の撮影がそういうテーマだと、ほとんどそういうことに時間を費やすので。
【CB】撮影現場が、エスニック飯が身近にあるところになる。
【比呂】現場では食べるんですけど、編集作業に入ると、当然そんなものは食べられず、コンビニで買ったものしか食べる時間がないので。
【CB】NHKの近くのコンビニですか。そうすると、半々ぐらいですか、NHKの近くのコンビニ飯と、パキスタン料理などのエスニック飯の割合は?
【比呂】そうですね~あとは御存知の通り、カフェバグダッドさんにそそのかされて(笑)noteマガジンに書いている「世界を知るための料理10皿」に今、力を入れているものですから、あれを書くために結構な労力をかけています。
【CB】そのnoteマガジン「10皿」で、場所が日本で取り上げたのは、北関東のパキスタン料理。あとこの前アップしたのが、モンゴル。東京都内のモンゴル料理ですかね。あとは日本だと?
【比呂】日本だと、南関東で食べた「ラグマン」。ラグマンの記事が大ヒットしました。
【CB】ラグマンは中央アジアの手延べ麺ですね。それを10皿食べた。
【比呂】10皿以上食べています。あのマガジンは「10皿を紹介」と決められていますけど、もっといろいろな店に行かないと、各店の味の違いが分からないので、実際はもっと食べています。あまり美味しくない店を挙げたくないじゃないですか?
【CB】紹介する10皿は精選しているということですか?
【比呂】そうですね、やっぱある程度、モノを書く時ってそうじゃないですか。多めに書いて削っていくという作業があるわけですから。映像もそうですけど。
【CB】飽きないですか?
【比呂】飽きないんです。10皿の紹介を書くことによって、飽きないことに気づいちゃった。中毒性が高いですよね。すごいことを始めさせられちゃったな、と(笑)
【CB】一時期はパキスタン料理に集中して、その後モンゴル料理に集中したりするから、飽きないんですかね?
【比呂】それもありますけど、1つの料理についてものすごく突っ込んで学べるというのが面白いです。やっぱり書くにあたって色々調べないといけないので。いろいろな店に行くと、知らない情報がどんどん入ってくるので、それが毎回新鮮ですよね。いままではいろいろな国の料理を食べ歩くのが面白かったんだけど、1つの国をまとめて食べるということをやったとこがなかったので。カフェバグダッドさんのお陰です、もう(笑)
【CB】人間はやっぱり、食欲と知識欲というのがある。それが一緒になって相乗効果という感じですか?
【比呂】基本的に僕の場合、北関東にパキスタン料理を食べに行って、もっとパキスタン人のことを知りたくなったからNHKの番組にもなっちゃったわけですから。そういうことを繰り返しやっているわけです。日本・世界のエスニックタウンを紹介するYou Tubeチャンネル「エスニック・ネイバーフッド」の番組を作るようになってからは、そういうスタイルが形成されてしまいましたね。
【CB】もう止まらなくなっちゃった。
【比呂】止まらないですよ、体重が減らないですよ(笑)
【CB】やっぱりカロリー高いですかね。
【比呂】国によって高いところがあるので。パキスタン料理はカロリー高かったです。パキスタン、ラグマンは炭水化物が多いので。モンゴルはまだいいんですよ。
【CB】肉だから。
【比呂】肉だけでもなんとかなるから。今フムス(ヒヨコ豆のペースト、「ホンモス」ともいう)についてやっているんですけど、ヘルシーだけど、結局パンを食べますからね。他のものも食べますから。フムスだけというもいかないので、なかなか大変です。
小学生時代は「ビビンバぐらい」
【CB】そもそも、比呂さんが、エスニックタウンやその食に関心を持つきっかけになったのは、なんなんですか?
【比呂】僕のことをある程度知っている人は知っているかもしれないけど、僕は帰国子女だったのね。小学校2年のときに親父の都合で、ニューヨークに近いニュージャージー州のフォートリーという街に4年半住んでいた。そこで外国というものとのつながりができちゃったものですから、そうしたものへの「とっつきやすさ」みたいなものは他の人よりもあると思うんです。でも小学生時代に、別にエスニック料理にハマったということは特にはなくて。
【CB】アメリカにいたのは、何歳から何歳まで?
【比呂】小学校2年生から6年生までです。
【CB】小学生の殆どの時間。
【比呂】そうですね、ほとんどそうですね。
【CB】そこで移民というかエスニック食というか。
【比呂】その時は特に接してはいないんです、イタリア料理とかは食べましたけど、ピザとかね、ピザは、あの頃25セントで1スライス食べられたんですよ。ニュージャージー州で。それは普通に食べていたものだったんですよ。それが、日本に帰って来たら、なかった。もう少し経って、日本に「ドミノ・ピザ」がやってきて「やっと日本でもあのピザが食べられるのか」という感覚はありましたね。
ドミノ・ピザは、ニューヨークのピザに一番近いですね、ああいう感じのピザは。
【CB】アメリカで過ごした小学生時代はピザぐらいで、今食べているようなさまざまな国の料理には出会っていない?
【比呂】ビビンバとかは食べましたね。僕が住んでいたフォートリーは、当時、日本からの駐在員がたくさんいた町なんですけど、日本人がたくさん住んでいると、韓国の人も住むんですよ、食生活が似ているから。そうすると韓国の飯屋が増えてきて、いつの間にか日本人がいなくなるというのがだいたいのアメリカの町のパターンですね。その頃は韓国料理が出始めの頃だったから、珍しいから親と一緒に食べに行きました。
【CB】週末に家族みんなで食べに行くような店が、韓国料理屋だったということですか。
【比呂】そうですね、韓国かイタリアか、日本食にも行きましたけど。当時うなぎが好きだったのでうなぎを食べにも行きました。
【CB】アメリカにうなぎもあるんですか。
【比呂】あったんです。一軒、そこそこのお店があったんです。子供の舌だから、たいしたことはわからないけど。結局、その後日本に戻ってきて、エスニック料理にそれほど触れることもなく、大学になって、大学に入るとラーメンのブームがあったので、外食でラーメンを食べるようになるじゃないですか。そうした食の嗜好が出来上がったところで、アメリカに留学するわけですよ。そうすると、アメリカにはラーメン屋がないわけですよ。当時のニューヨークは、まだ美味しいラーメン屋さんがほとんどなくて。その後、良い店が沢山できてきたんですが…
NYで映像を学び、就職
【CB】中学、高校生時代が日本ですか?
【比呂】大学の途中まで日本にいました。「日芸」に行きまして。
【CB】日本大学芸術学部。
【比呂】に行きまして、ニューヨーク大学に編入して、映画の勉強をずっとしていたわけですけど、それが映像のお仕事につながっているわけです。
【CB】小学校の時に暮らしたアメリカに、大学の時に再び暮らすことになったわけですね。それはニューヨークですか?
【比呂】ニューヨークです。ニューヨーク大学がニューヨークにあるので。昔行ったところに戻る感覚ですよね。
【CB】つまり、小学生時代にニューヨークにいて、9年日本にいて、大学でまたニューヨークに行った。
【比呂】9年日本にいて、10年向こうにいたから、アメリカ生活最後の頃は、アメリカ暮らしの期間の方が長くなったんですよ。トータルで14年半なので。
【CB】大学に入って、その後なぜアメリカに10年もいることになったんですか?
【比呂】大学を卒業したんですが、日本に帰ってくるつもりはなかったんですよ。「アメリカ行って一旗揚げる」ぞ、的な感じだったので。大学を卒業して、専攻と職種が同じだと取ることができるビザ、「特殊技能ビザ」みたいなのがあって、それを取ったんです。そうしないと向こうにいられないので。
大学を卒業して、1年間、「プラクティカルトレーニング」というのがあって、その1年間で職場を見つけないといけない。一定の給与水準を超えないとビザはもらえない。アメリカ人の普通の人よりは給料が高くないといけない。
【CB】有能な人物であることを証明しないといけない。
【比呂】そうですよ、証明しないといけない、弁護士も使って。それで苦労するんです。
【CB】何の仕事だったんですか?
【比呂】映像関係。大学で映像を学んだから、映像の仕事につかないと、ビザは下りないんです。八百屋さんをやってもビザは降りないんです、「違うじゃん学部が」って。
【CB】大学への編入から映像の仕事に就いて、10年間ニューヨークに。
フォーとの出会い
【比呂】日本食をニューヨークで食べようと思ってもあまりおいしいものがなくて、食べたくないんですよね、そこまで。当時、僕が好きなのは「天下一品ラーメン」だったんです。あれば天下一品に行ったんでしょうけど、ないから。何を探そうかということで、出会ったのが「フォー」なんですよ。フォー、最初はよくわからないじゃないですか、食べ慣れない味なので、パクチーもそんなに好きじゃなかったし。でも友達と何度か行って食べているうちに、すごく好きになっちゃって毎週行っていました。大学の後半戦から卒業して、ちょっとしたぐらいの頃は、毎日のようにチャイナタウンにいくか、どこかでフォー屋さんをみつけて、フォー屋めぐりというのをニューヨークでしていたんですよ。そのレベルのフォーって、東京ではあまりなくて。南のほうのベトナム人が多くて、本格的なんですよ。ちょっと甘めで、半ナマの肉とか、葉っぱがブワッとのっかっている。そういうのないんです、日本では。「草」がないと駄目なんですよ。それにハマりまして、そこから色んな国の料理が面白いぞとなったんです。ラーメンからフォー、フォーからエスニック料理。引き金は、天下一品ラーメンですね(笑)
【CB】その頃は、1990年代ですか?
【比呂】1993年から2003年までです。色々食べていくうちに、この「ベスト・エスニック・イーティング・イン・ニューヨークシティ」という本と出会いまして。これに出会ったことがとても大きい。ロバート・シエツィーマさんという、向こうで有名な「ビレッジボイス」という雑誌に連載をされていた方なんです。2001年に出版されたんです。
で、その前に「タイムアウト」という雑誌のNY版が1995年にはじまって、その何回目かの特集が「イーティング・アラウンド・ザ・ワールド・イン・エイティ・デイズ」という、80日間で世界をニューヨークで食べようという企画だったんですよ。これは面白いなとなって、当時アメリカでフォーとか食べていた友達と、その記事に従って食べ歩いたんですよ。もう、「全部の店に行こう」みたいな話になって。それに加えて、「ベスト・エスニック・イーティング・イン・ニューヨークシティ」が出版されたんですね。2つの相乗効果で、「じゃあ俺ちょっとこれから毎日違う国のもの食うわ」と決めて、実際にそうしたんですよ。117ぐらいの国と地域を毎日食べ歩いて。もうそこまで行っちゃうとかなりな偏食ですよね。
【CB】この本で全部紹介されているんですか? 117カ国のレストラン
【比呂】これには殆ど書いてあります。プラス、当時はまだインターネットがあまり一般化していなかったので、「タイムアウトNY」に載る情報、「ビレッジボイス」に毎週載る新しい店の情報が重要でした。国別で掲載されるので、色々な店に行って。始めはマンハッタンとか近場だったんだけど、面白いところがあれば、電車で2時間ぐらいかかったりするんですよね。そういうところに行ってまで食べたりしていました。
NYで各国料理を食べ歩く
【CB】ざっくり、どういう国の店が多いんですか?
【比呂】やはりニューヨークなので、基本的にまんべんなくある。アフリカだけは、すべての国の半分もないかな。ガーナ、ナイジェリアとか有名なところはありますけど。他の地域の国の料理はだいたいあったし、当時まだ独立して間もなかった旧ソ連の国々の飯屋もあった。アゼルバイジャンの飯屋もあったし、ジョージア料理もその時初めて食べたんですよ。毎日違うものを食べている時にジョージア料理を初めて食べた。ルールも一応作っていて。「アラウンド・ザ・ワールド・エイティデイズ」(八十日間世界一周)って映画があるじゃないですか。あの映画って、イギリスから出発して、イギリスに戻ってくるんですね。だから僕もイギリスから始めて、国づたいに行く、というルールを作って。ただそれだと難しいところもあるなので、「そこはまあ飛ばして」みたいにもなりますけど、「ヨーロッパから急に中国というのはありえない」と決めて。
【CB】それは一人でやったんですか?
【比呂】毎日やっているから、当然、毎日付き合ってくれる友達はいないんですけど、いろいろな友達に電話で声をかけて、「今日はここだけど行く?」っていう感じで声をかけて。
店によってはカリブ系の店なんかだと、かなり質素なんですよ。席もなくてテイクアウトだけみたいな感じの店も多いので、カリブ系になると、そういうところだと大勢は連れていけないし、しかも交通が不便なところにあるから、そういうところはなるべく一人でいきました。ただ大勢で行ったほうが良いなというところは、なるべく大勢に電話をかけて「今日これだから行こうよ」みたいな感じで。
【CB】ナニ人ですか、誘う人は。
【比呂】日本人です。
【CB】日本人以外は、「食べ歩き」という視点を持っていないのかな。
【比呂】そこまでやってくれる人はいなかったかな。職場のボスはユダヤ人だったんですけど、ユダヤ系のアメリカ人ですけどね、彼もたまに参加させたりして。
【CB】ボスも。
【比呂】ボスも、暇な時には「行く行く!」みたいな。
【CB】今思い出しても「あれはよかった」という店はありますか?
移民街が面白くなった
【比呂】それこそ、ジョージア料理なんかはインパクトありますね、今まで食べたことがない味付けだったし。とにかく、エスニック移民街に食べに行くのが面白いんですよ。普通のところにある店だとあんまり面白くなくて、ブルックリンとかクイーンズとかの、移民街にある店は、思い入れが全然違いますよね。ニューヨークの端っこの方にロシア人街があって、ブライトンビーチというんですけど、そこは凄く面白いです。料理もうまかったです。店は、今も多分まだあります。「カフェ・ラグレチェック」とか、そんな名前の店なんですけど。ロシア料理かな、ロシア・ウクライナ料理。
【CB】住民が「普段使い」している店。
【比呂】そういう感じのところです、値段も安いし、面白かったですね。あとは何だったかな、アフリカ料理とかもすごかったですね、ナイジェリア料理は初めて食べた時は衝撃でしたね。この「ベストエスニック・イーティング・イン・ニューヨークシティ」にも書いてあるけど、「フーフー」とか「モイモイ」とか、「エグシ」とか、「オゴボノ」とか、「何だこの名前は?」って。移民街に行くとだいたい、(一般の)アメリカ人に食べさせようという気があまりないので。基本的にナイジェリア人にしか提供してないぐらいの勢いの店だから、何も書いてないんですよ、説明書きが。英語がしゃべれない場合もあるし。そういう意味ではすごいインパクトでしたね。「何だこれは」と。食べてみないと味も分からないし。そういう店がニューヨークにあるというのが驚きだった。
廃墟の中のセントルシア料理店
ニューヨークって危険なエリアもあって、ナイジェリア人が住んでいるようなところはだいたい危険なんですよ。そういうところに行ったりすると、廃墟があったりして、人が歩いていないところを通ったりするんですけど、もう、ドキドキしながら。1か所<ひどかったのがセントルシア料理。カリブ海に小さな島国があるんですけど。その「セントルシア料理屋」があるんですよ。イーストニューヨークっていう一番治安の悪い場所に。そこの駅を降りるともう「荒野」なんですよね。廃墟すら無くなっちゃって、更地があちこちにあって、その中にポツンとセントルシア料理屋があって。
アメリカの銀行ってわかりますか? 窓口で、回転ドアのようなものをくるっと回してトレイにお金を入れたり、お金をもらったりする仕組み。防犯のためです。それと似た、防弾ガラス製の透明な小さな回転ドアみたいなものの中に、お金を入れて回して店に渡す。しばらくすると回転ドアがまたくるっと回って料理が出てくる。セントルシア料理店はそういう仕組みになっていて。(言葉で説明するのが難しいので、映像をはりつけました)
「すごいところに来たな」って思いました。あれは相当インパクトがあって、思い出深いです。飯もうまかったんですよ。カリブ系の料理屋さんって「オックステールシチュー」が美味しくて。トロトロに煮込まれたオックステールシチューがすごく美味しくて。また後で話しますけど、「ピンク・スバル」という映画を撮った小川和也監督という友人がいるんだけど、彼がそれを食べた時に「これ、超うめえ、超うめえ」と言って。それが今まで食べた中で、一番うまいオックステールシチュー。それぐらい美味しかったです。「美味しい、美味しい」と言っているもんだから、中からおばちゃんがでてきちゃって、壁の向こうから。「コイツら大丈夫だろう」って(笑)。話していると娘だか息子だかの奥さんだか旦那だが日本人だって話になって、その話でも盛り上がって。そんな移民たちとのコミュニケーションは面白いですね。
【CB】その頃には、現在のような、比呂さんの志向は、なんとなく、見えていたんですか?
【比呂】僕は映画監督になりたかったので、これは趣味だと思っていたんですよ。映画監督になりたかったから、この食べ歩きをやりつつ、自主映画なんかを2年に1回ぐらい作ったりとか、あとは旅行もしていましたけど。向こうにいた時は給料もそこそこよかったので、そういう意味で贅沢もできたから。
【CB】趣味だったと。
手書きの料理店ガイド
【比呂】完全に趣味。ただ、こういう文化があるのは面白いと思ったので、本にしようと考えたんですよ。毎日食べ歩いたものを本にしようという考えはあったんだけど、食べ歩いた年が2001年なんですね。ちょうどミャンマー料理を食べに行く日に、飛行機がぶっこまれちゃって、食べ歩きが1日休みになっちゃって。翌日は食べに行きましたけど。翌日、開いていたんですよミャンマー料理屋。
9/11があったからあきらめた訳ではないけど、タイミングを逸したかな、みたいな感じで。こと細かに書いていたんですけどね。きょうこの場所に持ってくるか迷ったんだけど、字が汚いのでいやだな、と思って持ってきませんでした。
そういうことがあったので、そういうところを取材したら面白いかなと、と思って、アメリカにある日本のプロダクションに企画を持っていったんですよ、だけど、「移民は、写真にうつりたくない人とかがいるから、難しいんじゃないか」って言われたんですよ。「じゃあ、辞めます」となって。そこまで思い入れがなかったんでしょうね。「じゃあ、辞めます」ではなくて、取材をして「意外と行けるじゃん」となったら、もしかしたら作っていたかもしれない。ただ、どちらかというと映画を作るという方が、ドキュメンタリーとかではなくて、ドラマ仕立ての映画を作りたいというのが、そのころの自分の大前提としてあったので。そっちが優先ですから。趣味、あくまでも趣味。このころはね。
「日本食だけじゃ生きていけない」
【CB】そして、日本に戻ってきてからも趣味として…
【比呂】色々食べ歩くわけですよね。向こうでこういう料理を色々食べていたので、日本食だけじゃ生きていけない訳ですよ、基本的に。日本に帰ってきた時は、「色々な料理があるのかな」ということが心配だった。アメリカに行った時、「天下一品ラーメン」があるのか、ないのかかがすごく心配だったように。
その時、こんな本がアメリカのブックオフで10ドルで買って。「全地球食堂」(枝川公一著)という本ですけど、「日本もそこそこあるんじゃん」と思って。けっこう、色々な国の料理屋がここに書いてあったので。しかも、ニューヨークにはモンゴル料理がないんですね。さすがにニューヨークにはモンゴル人はそんなにいないので。「モンゴル料理あるじゃん、まず日本に帰ったらモンゴル料理を食べよう」、そんな感じでした。
【CB】日本にある各国料理店を紹介する本が希望を与えてくれた訳ですね。
【比呂】さらにそこに、今日、ゆり子さん、いないのかな? あ、いた、そちらにいる青木ゆり子さん(e-food主宰)を知って、「すごい人がいるじゃん」みたいな感じに思って、それで安心して日本に帰ってきたんです。それが2003年です。
【比呂】日本には、中東料理がないのかな、と思ったら、カフェバグダッドという人物がいて、彼が主催する中東飯のイベントとかに行ったりしたわけですよ(笑)。模索していたんです。日本に帰ってきて、日本での生活を安定したものにしないといけないから。
【CB】でもアメリカを離れて、喪失感もあったんですか? ニューヨークの多彩な食に比べて、東京はどうなんですか?
【比呂】東京は少ないですね、移民街という意味では、その当時は。最近は充実してきましたけど。
ポジティブな面を伝えたい
【CB】あとで映像を見せてもらえると思いますけど、今、YouTubeに「エスニック・ネイバーフッド」っていうチャンネルを比呂さんが作って、そこで日本のいわゆるエスニックタウンや、アメリカとか中国などのエスニックタウンを紹介する番組をアップしていますよね。日本のエスニックタウンや、アメリカや中国のエスニックタウン、全部ぐるっとまとめてコンテンツ化しているというのが面白いですよね。
【比呂】そうですね、それが面白いというのは、国によって移民の街の雰囲気とかもちょっと違うからだと思います。その辺の違いも見比べることで分かったりとか。今編集中で、もうすぐあげますけど、中国の広州に「アフリカンタウン」があるんですけど、パート1はすでにアップしてあって、それはメインのところ。旧フランスの植民地のアフリカ系の人たちが住んでいるエリアで、ナイジェリアとウガンダからの人たちは、別の地域に住んでいる。さらにソマリア人もいたので、ソマリア人はまた別の所にビルがあってその中にいる。来週ぐらいにアップしますけども、これをアップしたら、僕がミネアポリスで取材をしたソマリ人のエスニックタウンの人たちと、You Tube上でどんな感じの交流があるのかな、と。
【CB】交流があるんですね。
【比呂】交流があるっぽいですね、コメントを見ると。僕のYouTube番組を見ていない人に説明をすると、最初にアップしたのがアメリカのミネアポリスのソマリ人街なんですね。ソマリ人っていうのはソマリアとかケニアとかエチオピアに住んでいる方々なんですけど、そういう方々がまとまってミネアポリスにものすごい規模でいるんです。結構アメリカで迫害をされている人達で、ソマリアって、イメージがものすごく悪いんです。それで、僕はポジティブな面だけをあげたくて、YouTubeの番組を作っているんですが、その意図をちゃんとソマリ人たちは分かってくれているんです。コメントに、「よくぞ取り上げてくれた」というコメントが、ものすごく多く来ているんですよ。それで「バズった」といいますか、ソマリアや、ヨーロッパののソマリ人のコミュニティの方々がものすごい人数見てくれていて。「よくぞ、こういうものを作ってくれた」って。
このエスニックタウンを始める前に、ネットに上がっている映像をいろいろ調べたんですよ。検索してみると、出てくる映像がほとんどネガティブなものばっかりで、だいたいヘイトな人達が「あいつら、こんなひどいことをしているぜ」みたいに非難する映像ばっかりなんですよ。
だから「その逆をやらないとおかしいでしょう」ということではじめたものだったので、僕的には、世界の色々な人達に見て欲しい、というのがあったんです。
結果的にかも知れないけど、移民の人達を勇気づけているところがあって、ソマリ人編はまさにそうなっているんです。この間、セルビアに行って、セルビアの映像を上げたら、結構セルビア人が食いついてきて、それとともに前上げたアメリカのセルビア人コミュニティ、シカゴにあるんですけど、それを紹介する番組が、7万ヒットぐらいして。どこから見ているかというと、セルビアからが一番多いんですよ。番組は英語ですけどね。次いで、ドイツとかオーストリアとか。その辺にいるんですよ、セルビア移民が。移民になっている人達が、他の国にいる移民の人たちを気にしているんですよね。そういう「つながり」というのがすごく有るんだろうなと。
【CB】ご覧になった人はわかりますけど、英語で全部番組を作っているので…
【比呂】世界中の人達が見られるように、ということで英語で敢えてやっているんですけど。残念ながら日本の方は、国別でいうと、下の方、50位ぐらいですね。
【CB】英語の勉強になるから良いですけどね。You Tubeで次々と新しい番組をアップしていて、僕も毎回楽しみに見ているんですけど。
【比呂】日本で一番のビューアーで、ありがとうございます。
【CB】いえいえ(笑)。コツみたいなものってあるんですか、YouTubeの番組を作る時の。「どういうふうに狙うか」という言い方もいやらしいですけど、多くの人に見てもらうための工夫というか。
「食」プラス「文化」
【比呂】基本は、「食べ物」が一番食いつきやすいので。誰かが「こういうところがあったら行ってみたいな」というのは何か、と考えて作っています。普通には行けないところ、許可を取らないと入れないような場所は紹介してもあまり意味がないので。レストランは、皆さん一番入りやすいところだから、そういうところを紹介して、それに「プラスアルファ」、文化的なものか、ファッションだとか、そういうのがあったら入れたいと思って作っています。アメリカのソマリ人街には、ソマリ人達の服を売っている店があるんです、モールが有るんですけど、何百店もソマリ人の服屋さんがあるんですが、ほとんどが女性向けの服屋さんなんです。男性の服は1軒か2軒しかなくて、ほとんどが女性向けなんですよ。それを取材するには女性じゃなきゃ無理なんですよね。それは分かっていたので、レポーターは女性の方を選んで、上石愛(あげいし・めぐみ)さんという方にリポーターをしてもらいました。きれいな方で視聴者の目をつかもうかなと。
【CB】基本的に日本人というか、日本の視聴者を意識していないというか。
【比呂】本当は日本人にも見せたくて、日本語の字幕も入れるつもりだったんですけど。ちょっと余裕がないだけなんですね。今後、入れていくつもりではあるので、それによって日本の読者がどれだけ増えるか楽しみなんですけど。
【CB】勝負の土俵を世界に広く構えているところが興味深いです。
【比呂】やっぱり、今、世界中でヘイトクライムが起きているので、トランプ大統領の言動などをみて、ちょっと僕の中でふつふつと湧き上がってきたものがあるので。アメリカは僕が住んでいた国、というのがあるから、実際に10年間住んでいたということは、移民だった訳ですから。「移民達の生活を見ると、こんな面白くて楽しめるんだよ」と示したい、ということですね。
監督作は「口裂け女」など2作
【CB】これまでに、映画も撮られたんですか?
【比呂】映画は、「エスニック・ネイバーフッド」を始める前に、「口裂け女 in LA」という映画と、AKB48の「9つの窓」という映画を、短編ですけども、オムニバス形式で一応劇場公開を。
【CB】AKBの映画も…。
【比呂】「口裂け」のあとに撮ったんですけど。それが一応きっかけではあるんですよ、今の路線にはいったのは。もともと映画監督になりたかったので、それで映画監督になったんですよ。お金払って見に行く映画館で上映する映画を作ることができたら、非常に楽になった。今まで映画監督にならなきゃというのがあったんですよ。その足かせがなくなったんでしょうね。それで自由度が非常に高くなった。だから、夢だけにかじりついちゃ駄目なんですよ、もっと柔軟にやらなきゃいけない、そこにやっと気づいた。それでこういうことがやれるようになったんですよ。映画監督になっていなければ、この発想は出てこなかった。
【CB】また映画を撮りますか?
【比呂】映画監督はまだやります。やりたい時にやれれば良いシチュエーションで、やれればやります。
【CB】あと、さっき話が出た、小川和也さんという映画監督さんの話をお願いできますか? ニューヨークで小川さんがオックステールシチューを食べて「美味しい、美味しい」と歓喜したという…
【比呂】彼も同じ映画学科でした。ニューヨーク大学じゃないんですけど。映画監督になると言うので、一緒に映画作ったりとか、手伝ったりとか。僕はよく、小川監督の映画に出演しているんですよ。3本ぐらいでていて。「口裂け女in LA」は、オムニバスで4人の監督が撮っているんですけど、そのうちの一人が「カメ止め」のカメラマンの方なんですね、曽根さんという方なんですけども。撮影は全部曽根さんがやっているんですが、小川監督と曽根さんで企画を考えて、ロスにいって映画取ろうと言う話になって。そのうちの小川監督の作品に僕が出演しているので、後で見せますけど。だから役者としては、僕は小川監督の常連役者なので、小川監督が映画をとるとだいたい僕が誘われる。
【CB】役者をやるというのは、どんな魅力があるんですか?
【比呂】僕は役者がすごく好きなんですよ、セリフが合ってそれを演技するというのは面白い行為で、それはそれで続けたいんですけど、なかなかオファーが来ないので(笑)
【CB】そうですか(笑)
「ピンク・スバル」のメイキング
【比呂】話がそれちゃった。小川監督が初めて取った映画が、イスラエル・パレスチナでとった「ピンク・スバル」という作品。イスラエルには、ユダヤ人だけじゃなくて、何十%かのアラブ人が住んでいるんですね。そのアラブ人の街を舞台にした映画なんですよ。そのアラブ人達が何をしているかと言うと、テルアビブから、イスラエルの大都市ですね、そこから車を盗んでばらして(イスラエル占領地で一部はパレスチナ人の自治が行われている)ヨルダン川西岸に持っていくらしいんですよ。バラして持っていって組み立て直して売ることで足がつかないという。何故それが成り立つかというと、盗んでも保険がきくから、盗まれたユダヤ人の方もさほど気にしないらしいんですよ。そこのタイベっていうという街、「タイベビール」の醸造所があるタイベとは別の、イスラエルの街があるんですけど、そこはユダヤ人からものすごく嫌われている街で、「あんな危ないところで撮影するの?」みたいな感じで言われるんですよ。でも僕らは、アラブ人側にいるから、その裏で楽しんでいたんですけど。とはいっても、自分たちの友人がそこに住んでいるから、ということもあって。一度小川と二人で町中をぶらついていたら、不良みたいなアラブ人たちが「きゅーっ」とやってきて、「何だお前ら」みたいな感じで言われたけど、「俺らテラーウィ家のもんだぜ」と言ったら、「おう、そうか」みたいな感じで。
【CB】何家?
【比呂】主演の方がアクラム・テラーウィという、テラーウィ一族だったということで。
【CB】名門?
【比呂】名門というか、みんな知っている家なので、それを言ったら去っていったという。
【CB】ヤクザみたいな。
【比呂】ヤクザというか、マフィア組織がいくつかあるらしいんですよ、それが車マフィアなんだろうと思うんですけど。
その小川監督の映画は、イスラエルとパレスチナをテーマにしているんですが、政治のことは一切語らないというところが根本のところにある。要はそんなのは「テレビのニュースとか色んな所で見れられるじゃん」。でも普通の生活がアラブ人達にもユダヤ人達にもあるし、「そういうのを見せようよ」というコンセプトのもとにその映画を作っているんですね。だからいわゆる「パレスチナ問題」とかは作品に出てこないんですよ。楽しそうな人達が車を盗んだり盗られたりしてワサワサしているみたいな映画で。その発想がすごく良いなと言うのがあって、そうした発想が「エスニック・ネイバーフッド」にも流れているんですね。ネガティブなことはいわない、ポジティブな、みんな飯食えば楽しいじゃん、みたいな。「ピンク・スバル」は、2008年にイスラエルで2ヶ月半で撮りました。僕も2ヶ月半、メイキング班として滞在しました。
【CB】出演もしたんですか?
【比呂】出演はね、ちょっとしかしていないんですよ。初めは夢のシーンがあったんだけど、削られてなくなっちゃって(笑)
”ゼロ”プロパガンダン展
【CB】そうですか~前半、残り10分になったので、「”ゼロ”プロパガンダン展」の話をしますか。比呂さんが館長の「自宅ミュージアム」ですね。「ギャラリー・レーニン」、行かれた人もいると思いますけど。
【比呂】「イカれた」ギャラリーっていうのかと思いましたよ(笑)
【CB】(笑)毎年秋に、「”ゼロ”プロパガンダン展」というのをやっていて。
【比呂】「自宅ミュージアム」というコンセプトがありまして。東京都あきる野市に、「少女まんが館」っていう小さい博物館、図書館があるんですけど、そこの中野純さんという館長の方が、自宅ミュージアムというものを提唱しています。自分の家を解放する運動みたいな。自分のコレクションとかを色んな人に見てもらうことで、家の空気の通りが良くなって、毎回それをやることによって家を片付けないといけないし、色んな人を見せるからちゃんと体制を整えないといけないので、それをすることによって、すごく部屋が活性化するという、そういうコンセプトの元にやっているんです。僕はその中野さんと一度、話をした時に、「僕こんなのやっているんですよ」と、世界の色々な所を旅行した時に集めた指導者の肖像画の話をしたんです。色々な国の独裁者だとか、天皇陛下でとか、クイーンだとか、そういうものをずっと20何年間集め続けていて、それが大量にある。「それを見せないのはもったいない」と中野さんにも言われ、それを見せる機会を作ろうということになって。
コンセプトとしては、肖像画を全部張ることによって、例えば、毛沢東がいて、安倍首相がとなりにいて、天皇陛下がとなりにいたりするわけですよ。それをやると、もう指導者の肖像画の意味が失われるんですよね。普通、天皇陛下がこういたら、天皇陛下を尊敬されているんですね、習近平を尊敬されているんですねとなるわけですけど、全部一緒に飾られちゃうと「どういうことだ?」となっちゃう。それで「ゼロ」なんです。プロパガンダ色が「ゼロ」になる。だから「”ゼロ”プロパガンダン」。「ン」が付くのは、僕が尊敬する赤瀬川原平さん達がやっていた、1960年代のアバンギャルドな前衛芸術家グループ「ハイレッドセンター」の影響。僕は、その人達を学生時代にすごく尊敬をしていて、そういうパフォーマンス的な芸術性にすごく憧れていて、彼らの作品展の名前が「読売アンデパンダン展」だったなんですよね。それで、「”ゼロ”プロパガンダン展」なんですね。
【CB】造語なんですね。
【比呂】造語なんです。
【CB】楽しいですね。
【比呂】あれは楽しいですね。
【CB】毎回ゲストがね。
【比呂】元々、ゲストはあまり考えてなかったんですけど、1回目はゲストを「自宅ミュージアム」の中野さんにして、2回目はただの飲み会だけにしちゃったんですよ。ダラダラだったので面白くなかったんですよね2回目は。だから3回目は身近な人を呼んで、ちょっとトークショーやろうと言って、ここにいる田村さん(田村公祐さん=中東ワインショップ「エインシャント・ワールド店主」)と、神戸にいる新田さん(新田浩之さん=在野のロシア・東欧専門家)という2人に来てもらって、旅の話を。やっぱり世界の肖像画があるので、国に対する何かを話してくれる方をイベントで毎回呼ぼうということでお2人を呼びました。
で、4回目は私。ちょうど世界のエスニックタウンの取材をやったあとだったので、僕自身がそれを紹介するということで、第4回は僕自身が司会兼ゲストみたいな感じで。第5回が、5回目の節目だから、「ちょっと知らない人ですごい人を呼びたいぜ」となった。僕ら「濃い」連中の中では未承認国家という、皆さん知っているかと思いますけど、「未承認国家」というキーワードがあるんですよ。アブハジアですとか、沿ドニエストル共和国ですとか、そういうところに行かれた方がこの会場にもたくさんいるんですけど、それに詳しい方を呼びたいと。そうしたら、NHK出版から廣瀬陽子さんという方が、未承認国家についての本を、唯一出されていたのかな、しかも学術的にちゃんと書かれているんですよ。慶応大学の総合政策学部(SFC)の教授さんなんですけど、内閣の国家保安なんたら顧問もやられている方で、「こんな人来てくれないだろうな」と思ったけど、メールで依頼したら、「楽しそうですね」みたいなリアクションがあって、来てくださって。安い謝礼で、うちにわざわざ。最初は、ちゃんとした会場かと思って来たと思うんですけど、ただの肖像画が貼ってある汚い部屋だった。「こんなところだったんですね」みたいな感じで、楽しそうにお話ししてくれました。
【CB】北方領土を視察した時の映像を見せてくれたんですよね。
【比呂】すごく貴重な話をして頂いて。やっぱり内閣のなんとか顧問の方なので、北方領土の視察では、いろいろな所を見て、色丹島、国後島のいろいろな写真を見せてもらって、非常に良い時間になりました。半分は北方領土、半分はアゼルバイジャン。彼女はアゼルバイジャン共和国の大学に行っていて色んなことを学んでいるので。
そして去年は、さらに「あげよう」と思って安田純平さん(ジャーナリスト)を呼ばせてもらったんですね、なぜ安田純平さんかというと、シリアから帰ってきたからというのも当然ありますけども、以前会った時に「イラク料理が作れる」と言う話を聞いていたんですよ。その話をずっと覚えていたんです。
去年はちょうど僕もイラクのクルディスタンに行っていたので興味も高まっていて、ゲストもイラクについて何か語れる方が良いなと思って。「そういえば安田さんイラク料理作ると言っていたな」と。イラクについての本も書かれて、非常に面白い本なんですけども、じゃあ安田さんを呼んで、イラクの話をしてもらおうと思ったら、快く応えてくださって。シリアで拘束された時のことはほとんどせず、淡々とイラクの話をしていただいて。質問で拘束の話とかもでていましたけど、あくまでもメインはイラクの話で。すごく面白かったですね。僕がなにに興味を持つかによって、その年のゲストが決まる。夏ぐらいには決めたいんですけど。今、考えているのは、在日コリアンの方です。
【CB】それは楽しみです。では、そろそろ50分経過しますので、いったん休憩したいと思います。
【比呂】では、後半で、今お話したことの映像をちょいちょい見せたりしようと思っています。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?