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はじあいという協同

時代の状況下で、改めて従来の生活を見直さざるを得ない状況が存在する現在において、改めて、私たちにおける必要なものは何か問われることとなった、協力や、共同は今私たちが生きる上で重要なものとなった。そこで、共同体の観点から、過去存在した村社会の協同文化に関して投稿していこうと思う。

20世紀後半経済が豊かになるにつれ、核家族化が進行し、そうした社会状況から個人の部屋を持つ子が増加し始めた。約40年以上前の話だ。以前孤独死に関してリサーチなどを行っていたが、その際目にした孤独死のドキュメンタリーの中で述べていたのは、こうした社会状況によって個人の部屋を持つ子、あるいは一人っ子の家庭が増加し、最も最小な社会である家庭におけるコミュニケーションでさえ、その機会が減少していったという。こうした社会状況が、現代において孤独死を増加させた要因の1つだと考えられる。

このような以前から存在していた社会的状況に踏まえ、現在のような状況から、改めてコミュニケーションや共同体の在り方について考える必要があるだろう。

過去存在していた共同体の存在は、現代の私たちに示唆を与えるかもしれない。


須恵村という村がある。
アメリカの社会人類学者エンブリー夫妻が滞在した村として知られている。

この村の顕著な特徴はその協同の文化だったようだ。

田中一彦著 「忘れられた人類学者 エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉」
を題材に、この須恵村の共同体に関してを記していこうと思う。

田中氏によればエンブリー氏はこの須恵村の主たるテーマが「協同」であったという。
そしてこの村は協同を促すボスのような存在はなかったそうだ。無論のこと、身分や家父長制から、縦社会の側面が存在していた一方、この縦社会を維持するためには横のつながりが不可欠であった。少なくともこの村に滞在したエンブリー夫妻は実際に目で触れた際にそのように感じていたのだろうと田中氏は述べている。

時折、日本に関して一面的な縦社会という意見も存在するかもしれないが、そうとは言い切れない社会構造だと考えられる。

そのほかにも、協同が形成される上で、やむにやまれぬ理由が存在した。金銭が乏しい中では、橋を架けるなどのインフラ整備に資金を十分に使えないなどから、村の人々が手を貸すことで資金不足などを補っていた面も存在する。

しかしながら、こうした経済的な理由を差し引いても、村における共同体としての結びつきは強固なものだった。事実、この須恵村に長く滞在したエンブリーだが、夫妻の死後横浜の外国人墓地に須恵村村民が彼ら墓地への墓参りが続けられたと言う。

このことを考えると、一旦共同体に与した際のその精神的な結びつきは強いものだったと考えられる。

では何がこの結びつきをもたらしたのだろうか?

この問いから、実際に村における協同をもたらした要素について触れていく。

前提としてこの協同行為は村による取り決めによって行われていたものではなく、自発的な行為でもたらされていた。

この村の協同における要素は、大きく5つ存在すると言う。

1 組による当番制
2 協同作業
3 手伝い、加勢(葬式、家屋の建築、非常事件)
4 かったり(交換労働)
5 信用組合(講)

これら5つの要素が村に協同を生み出し、精神的な結びつきを強固にした。

次回投稿はこの諸要素に関して投稿していこうと思う。


参考文献:田中一彦著「忘れられた人類学者 エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉」忘羊社 , 2017年


表紙絵 :筆者

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