現在、須恵村の協同について調べている。形成される共同体において、その共同体の相互関係がどのように維持されるのか。その一つの例として須恵村について紹介していこうと考えている。個人主義だった時代も変化し、今後は共同体が再び増加していくと予想できる。そうした状況の中、一つの示唆として役立てればと思う。 前回は須恵村とこの村において協同がもたらされる5つの要素について触れた。その5つが下記に記載する5つの例だ。 1 組による当番制 2 協同作業 3 手伝い、加勢(葬式、家屋の建築
時代の状況下で、改めて従来の生活を見直さざるを得ない状況が存在する現在において、改めて、私たちにおける必要なものは何か問われることとなった、協力や、共同は今私たちが生きる上で重要なものとなった。そこで、共同体の観点から、過去存在した村社会の協同文化に関して投稿していこうと思う。 20世紀後半経済が豊かになるにつれ、核家族化が進行し、そうした社会状況から個人の部屋を持つ子が増加し始めた。約40年以上前の話だ。以前孤独死に関してリサーチなどを行っていたが、その際目にした孤独死の
今まで、リサーチした物事に関しての投稿を行っていたけれど、雑記のようなものも投稿し始めようと思う。 何かを作るのは何故だろうという話。 この記事では創作の理念みたいなものも含めて書いていく。 表れているもの、見えるもの。 当たり前かもしれないけれど、それは何らかの理由があってそれが存在している。 僕は最近手すきの時間にモノを作っているけれど、そこでふと、どうして何かを作るのだろうかと考えたので、改めてその理由を書いてみる。 今までは、廃棄品を使用してモノを作ってい
ちょっとした妄想虚言話 人の道徳的行動の性質を利用した人工知能の社会統治手法なるものをそれとなく空想してしまった。 仮にAIが社会を統治しているとしよう。神格化された彼が行う社会運営において、社会規律を安定的に保つ一つの方法として、人を模したロボットの劣等生グループを社会に組み込み、彼らとの対比によって人々が社会的規範を遵守して生活するのではないだろうかという妄想話 人は非道徳的な人々の振る舞いを見ると、この人物とは対称的に道徳的な行動を取るようになる。そのような光景を
暮らしや生活に着目する中で、私たちがかつて生活していた住居から、以前の私たちの考え方がどのようなものであったかが示唆される。 それは、環境問題がよりフォーカスされる中で、より永続性や他の生態系との共存のための示唆となるだろう。 そのような考えで、かつて私たちが住んでいた民家に関して現地で聞いた話を記していこうと思う。 屋根は葦、萱、藁、といった植物が扱われていた。 葦に関して言えば、海水と淡水とに混じり合う地域で生えていた葦は屋根に扱うと屋根の耐久性が高いという。両方
テクノロジーは神ではない。 そんな、テクノロジーといモノに対するちょっとしたつれづれ。 あくまでも、個人の考え。 テクノロジーは神ではない。英知のシンボルでも、何かを実現させたという慢心を得るものでも、それを誇示するものでもない。 人はとかくその”達成”に対して、己が優位に立っているという幻想を抱くように見受けられる。僕は今、IT関係の仕事に従事しているが、全く異なる田畑から出てきた身から見ると、そのように映ることがある。 また、いくつかの歴史がもつ、かつての”英知
以前宗教の観点から「”集う”理由の考察」と題して、儀礼や祭礼における集団行動に着目して、求心性や祭礼といった集団行為の由来について考えを述べた。 今回は、より生活に密着して、長屋という江戸時代における共同住宅に着目し、共同体における共同体意識の由来について紐解いていこうと思う。 かつて世界でも最も規模の大きい都市の一つであった江戸。19世紀ごろには江戸の人口は推定百万人いたと考えられている。 階級ごとに厳密に分けられた町の区画において、長屋は町人地区の最も主要なタイプの
神聖的な存在が人に行動に起こさせる由来をは何故だろうか。儀礼や祭礼に 今回はそれらを行うに至る動機ついて「祭りと宗教の現代社会学」を引用し考えを深めていく。 かつての村や町において共同体内内部で生活はおおむねまかなわれていた。 そのような社会において、共同体意識をもつことが社会集団の存続において不可欠な要素であったという。 祭礼や儀礼はそうした互いの共同意識を再認識させる役割を担っていたと考えられる。 ”住人に全体的な相互関係性を確認させ、「われわれ」意識を強化させる祭
シンボルとしてのオブジェクト。機能としては用途のないオブジェクトでありながらも、シンボルとしての意味性が付与されることによって、オブジェクトには人を引き付ける魅力が生じてくる。 そうした意味性は社会的状況や背景によって、大きく変化する。 今回の投稿では、その意味性の変化に関して、カクレキリシタンが住む島に建てられたエビス様を題材に、意味性の変化について述べていく。 島の背景カクレキリシタン。彼らは信仰の自由が保障された明治時代以降も江戸時代の潜伏的な信仰形態を残していた
ゲレロに関する論文から、ゲレロがジャガーを民俗的シンボルとしてあがめる由来を考察していた。 論文を読んでいる中で彼らが祭礼の際に行っているジャガーの着ぐるみを着る行為の由来が現代におけるコスプレイヤーが行っている別のキャラクターへのトランスフォームと本質として類似性があるように見受けられたため、少し祭礼に関して踏まえつつ変身に関することを投稿してみようかと思う。 もともとのリサーチの由来は、ゲレロにおける過去と現代でのシンボライズされたジャガーの意味性の変化の考察だったが
前々から登録だけして、何も書くことがなかったnoteですが、facebookに投稿している文章がリサーチに関することや日常に関すること、制作のことなどが混在して投稿されている状態なので、整理もかねてリサーチでまとめた文章や考察などをこちらにまとめていきます。ほそぼそやっておりますが、どうか読んでやってください。