1冊の本で、僕は誰かの脳内を旅している - 誰も傷つけない読書前感想文という罪
小さい頃から、本を読むことは、わりと好きなものの中の1つだ。
もちろん、今でもそれに変わりはない。
原体験を思い出そうとしてみると、歴史マニアで大工の祖父(実家は宮大工です)が、古い建物のあらましや、歴史の出来事を本を一緒に読んで見学に連れて行ってくれたり、
膨大な本が壁一面に並んだ書斎から勝手によくわからないまま取り出して、自分なりに意味を整理してみたりな幼少時代を過ごしていたからだ。
小学校に入っても、誰も入っていかない図書室に入り込み、知らない文字だと判断できない未知の世界をいわゆる音楽での「ジャケ買い」感覚で借り出して読んでいた。
だから、ジャケに惹かれて取り出す癖があるため、文脈や背景を知らないまま目の前の対象を純粋に楽しめるのか?でしか見ない癖はこの辺りが自分自身の原風景な気もする。
するというか、そうなんだろうなぁと思った。
本には、「誰かが伝えたいこと」がたくさん詰まっている。その文字列が綴じられたパッケージの中から、僕たちは実際には間に合わなかった歴史上の出来事や、
実際には体験することが難しい世界を、誰かの視点や体験から自分の中に取り込むことができる。考えた人は、天才だと思う(笑)。
と、いうか、作った人も偉いけれど、「他人の体験談」を「自分への置き換え」をしてみたり、「想像しながら脳内を旅する」楽しさを見つけてしまった人がすごいのではないか・・・。
とっても罪な人だ。そのせいで今日も僕は、誰かの時間の中を旅している。つまりはこの罪は、誰も傷つけない。勝手に自分の中で楽しむことができる。
そんな楽しみを少しだけ、小学校時代に奪われかけた。それは「読書感想文コンクール」という年に1度の学校行事。
誰もが経験している課題だと思うが、簡単に言えば「本を読んで、自分が思ったことを言う」。それだけ。
僕は、読書量から、なぜかクラスで1人しか参加しない発表会に別枠で出場させられたりしていた。
本の感想。特に面白かったものばかりでもなく、課題図書は退屈なものもある。思ったことを素直に「面白くない。かくかくじかじかのあたりが気持ちよくなかった」と言った。
そしたら、校長先生か教頭先生か忘れたけれど、最後の総評で、なぜだか怒られた。思いっきり直された。
「この本は、こうこうこういうかくかくじかじかの気持ちで作者は書いたと思います。だから、それを面白い面白くないで片付けるのではなく、気持ちを汲み取ると正解は・・・・XXXXXだと思うので、増田君の意見は間違いだ」と。
その時はなんとなく受け流していたのだけど、今思う。「朝生か!」と。
まず、感想は当たり前だけど、自由。思ったことを言えばいいし、それを求める素直さコンクールじゃないのかよ!と今夜PCに向かいながら素直さコンクールをnoteで開催している僕は思う。
それぞれの視点があるから、1冊の本の持つ価値は、手に取った人の分だけ生まれてくる。先生の意見だけが正解じゃないと思うんだな!
と、30代も後半を迎える今、率直に思う。感想の内容を指摘するのであれば、素直に「視点の面白さを教えようぜ」と今あの頃の母校の義務教育にタイムスリップができたなら、言いに行きたい。
ま、今、できればいいかとも思うけれど、そんな視野を教えてくれたのであれば、よかったりもする。どうせ生きていかなければいけないのは、30年前の昭和ではなく、明日の令和だからだ。
それでもいいかなんて思ったりもする。
そんな読書体験で本はお友達となる。小学校時代は図書室。中学時代は地元の古書店。高校時代はクラスのロッカーの上に置いてあった名著の文庫棚。僕は高校時代、絶対に一番後ろの席に座ることを譲りたくなかった。
なぜなら、好きな時にその棚から本を取り出すことができるから。どうしても席替えがある時は、窓際をキープし、窓下の棚を本棚にしていた。
さて、本。読む前に「なぜ手に取ったのか」という気持ちを表すことを「読書前感想文」と言ってくれた人がいた。青山ブックセンターのイベントでのことだった。そこでこのシリーズを書かれる方が現れた。いい。素敵だ。
本を読んだ後の感想、視点も大切だけど、その前に手に取ることの意味もとても意味のあることだと思う。1冊の本を瞬間で読むことはできない。だから、身体に染み込むにはどうしても時間がかかる。
だけど、手に取った同期は「今」だ。動き出して意識した今なのだ。だから、「なぜ、その本を手に取ったのか?」の動機を意識しておくことは、自分の気持ちに向き合う事になる。
「積ん読」という言葉があるけれど、別にネガティブでもなんでもない。きっかけを手に入れているだけで幸せだなぁとも思う。
と、長々と過去を振り返ってしまって申し訳ない気持ちになる。「今」だと言っておきながら。
そんな「今」を気持ちだけで買っておいてある本を並べてみる。
建築という対話 - 僕はこうして家をつくる / 光嶋裕介
建築家、光嶋裕介による住宅論。建築哲学って昔から大好きで、「なぜその人のために、この家を作るのか」と考えに考え抜かれた人生最大とも言える買い物をアシストする建築家の哲学。
失敗のできない、相手の生活を豊かにするために必要なものは?寄り添う気持ち?見たこともないアイデア?完成した時がゴールではない、その先の相手の暮らしを見据えるために必要なこと。
これってとても大切な視点。大学合格がゴールではないし、就職はむしろそこからの人生の始まり。結婚がゴールインなんて言われるのも少し違う。むしろ、その先の時間を生きていかなければいけないので。
腕のいい美容師さんは、少し髪が伸びて次にお店に来るまでもカッコよく過ごせるために頭と腕を使う。それと同じ。
土地や人、文化から相手のための空間を考える視点を知りたくて手に取ってみたと。
そして手に取って気が付いた。「案外最近、相手の今ばかりを考えたアイデアしか出していない!」と。それではいけないので、気が付いただけで◎。
オフサイドはなぜ反則か / 中村敏雄
サッカーで最も「よく考えたな!」と思うルール、オフサイド。このルールがあるおかげで、サッカーはプレイヤーの個人技術や、チーム戦術が完成される頭を使う競技にしてくれている。
「前に行くために後ろにボールを回す」という不整合。このルールの発祥は、きっと中世の英国の気質やマナーが影響しているのかな?なんて思いつつ、きっと読み終えたら自分は紳士的に振る舞えるに違いない。
と購入。
というか、よくこんなルール思いついたなーと思うのです。
リズムから考えるJ-POP史 / imdkm
人間は心臓が動いていて、ゆっくりと鼓動が波打っている時はわりと落ち着いている。逆に気分が高まると、その鼓動は早くなる。つまり、ドキドキする。音楽は美しいメロディという装飾と、下を支えるリズムから成り立つ。
人間には、使用する言語に慣れ親しんだリズムがあると聞いたことがある。だから、日本人は古来、短歌を嗜んできたのだし、地域ごとにお祭りの太鼓のお囃子があったりするのだろうなぁと。
そんな中、音楽というものをリズムで語ることは、日本の地域性や歴史の中での環境変化による言葉の違いなどを見いだせるのではないか?とも思う。
ポイントはJ-POP。欧米の音楽とは違う、日本っぽいポップ・ミュージック。純粋に発祥の違いだけではなく、日本という土地だからこそ進化した文化は、リズム感が欧米と違うから?と考えた時に
まとめて解説されていたら面白いのになぁと期待値MAXで手に取った。
結論は、まだ読んでいないのでまだわからない。しかし、動機の時点ですでに自分の中で視点が1つ作ることができている!これが読書前感想文の醍醐味なのではないかとも思ってしまう。
まだまだあるけれど、キリがない。書いているよりも読んでいきたい。
20代の頃、大きな書店で壁一面に書評が載っていたのを見て、僕は一言呟いた。「きっと、一生ここにある本を全て読むことはできないし、音楽も映画も知らないものを残して死ぬんだろうな」と。
横で聞いていた恋人は「あんたみたいな人間がジャンルを残すんだろうけど、まず家庭は持ちたくないわ」とボソッと言った。
今、どうしているんだろうな。「きっとこの世にいる男性全ての魅力を味わうことなく死んでいくのかな」とか言っていたら最高だと思うよ。そういうところな。
そんなことを思い出させるというとても罪な読書前感想文だった。
まぁ、自由に楽しみましょう。
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