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戦前教育とアメリカの思惑

最近は教育などについて批判的な意見ばかり述べていましたが、
今回は戦前と戦後の教育などについて書きます。

・戦前教育とアメリカの思惑
はじめに教育勅語とは、明治23年に明治天皇が発表した、教育において道徳や倫理観を大切にしてほしいという内容の文章だと思います。
この文章には12条の徳目があり、
孝行、友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習行、知能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇などについて書かれています。
現代語訳のURLを貼っておきますが、なぜこんなに素晴らしい内容の文章が今は教育現場で広められていないのでしょうか?


それは恐らく、太平洋戦争時に、日本国民の恐ろしさの根源はどこにあるのか、と考えたアメリカが導き出した結論は、
教育勅語など「日本の教育」にあった、または「天皇」の頭の良さにあった、
と考えたからなのではないでしょうか?
そのため、GHQは戦後に憲法を改変し、天皇の為政者としての権利の剥奪するばかりではなく、3S政策を考え、実行したのではないか?
当時のアメリカ大統領であるトルーマンはこんなふうに発言したと記録があるのでURLを貼ります。



この発言に対して皆さんがどう思うか、そしてどう考えるか、それが楽しみです。
それは一旦置いておいて、現代の日本の教育には、戦前の教育システムの全てとは言いませんが、
よく見直して取り入れるべき所は取り入れるべきだと思います。また、天皇の立場についても、非常に違和感を感じます。
まるで、戦後のGHQが日本をどうすれば操れるか考えた結果、天皇の一族を憲法の檻で閉じ込めたように思います。
本当はもっと天皇にもやりたいことがあるんじゃないでしょうか?
それは僕の知る由も無い所ではありますが、この違和感についてもっと議論されるべきだと思います。

・「体罰について」
昨今では、体罰やハラスメントに対して敏感な世の中になっていますが、教育現場において体罰は絶対にいけないのでしょうか?
1990年代前半までに生まれてきた人達は当たり前のように体罰を受けていたと思います。
特に、戦前戦後50年間は教育現場でも当たり前のように体罰があったと思います。
問題なのは、「行き過ぎた、又は適切でない体罰」であり、「体罰を行う必要があり、適切な程度」であれば必要なのではないでしょうか?
この適切な体罰というものを皆さんには議論していただきたい。例えば正座とか、ランニングなど、直接的な暴力ではなく、言葉の暴力でもなく、
「代替行為による体罰」というものは取り入れても良いんじゃないでしょうか?
例えば、体罰がいけないからといって、きつく言葉で非難した結果、心が傷ついてしまったらこれは体の傷とは違い、治りが遅いと思います。
時には心の傷は治らない事もあり、かえって言葉だけで教育をするというのは、子供たちの人格形成に悪影響を及ぼすのではないだろうか。
これらの点を踏まえて、皆さんには議論していただきたい。というところで、本日は終わりにします。

最後までお読み下さり、ありがとうございました。

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