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誰のために自分は料理をつくるのか?

「あなたはどんな店にしていきたいの?」

奥さんにそう言われると本当に困ってしまう。


自分はいったいどんな店にしていきたいのだろうか…


料理とはそもそも「これ」という明確な答えがない商売だと思う。


たとえ最高級の食材を使ったとしても腹ペコの学生にとっては吉野家の牛丼の方がはるかに価値があるし、食わず嫌いの人にしてみれば食べたこともないのに「なんか嫌い」なんてこともザラにある。


ラグジュアリーな雰囲気のレストランにお洒落をして食べに行けば高級感が味わえるし、煙がもうもうと立ち込める焼き鳥屋さんに行けば大衆的な味に感じるだろう。


結局どれだけ時間を費やして努力を重ねてきてもお客さんにとってそこはあまり関係ないのかもしれない。

だってどこのお店も皆こだわって作っているから。

大事なことはお客さん自身の価値観だ。


店の味も雰囲気も10人いれば10通りの答えに分かれてしまうのが料理屋という商売だ。


かといってアート作品のように誰に忖度することもなく、ただただ自分の作りたい作品をとことんまでこだわって作るのもちょっと違うのかなとも思ったりする。


「わかるやつだけわかってくれればいい。」


メディアはそういうわがままで頑固な親父の作る料理が好きだ。

店の前に長蛇の列ができたり、取材NGの店なんかはテレビ映えするからだ。

頭にタオルでも巻いてヒゲを生やしたコワモテの親父だったらなおいい。


しかし自分はそうは思わないのだ。

料理というものはそういうものじゃない気がする。


自分のことを振り返ってみると、料理人を目指すきっかけは高校生の頃。

学校から近いこともありいつもうちがたまり場になっていた。

食べ盛りの高校生だから当然夕方には腹が減る。

そんな時に僕がいつもスパゲティやチャーハンを作っては友達に食べさせていた。

友達はみんな「うめぇうめぇ!」と言って食べてくれていた。

「お前料理人に向いてるよ」

今思えばタダでメシを食わせてもらってるんだからそれくらいのお世辞を言うのも当然だと思うが、当時のピュアな僕はこの言葉にまんまとその気にさせられた。

迷うことなく料理人の道を目指すことになる(笑)


他の料理人もきっかけはだいたい同じようなものではないだろうか?

おふくろの味に幸せな気持ちになった思い出や、僕のようなささやかな成功体験が喜びとなったり。

始まりはみんな誰かに喜んでもらいたくて料理人を目指したはずだ。

自分の味に自信があって、「この味でオレは生きていく」なんて人はゼロに等しいのではないだろうか。


やっぱり料理って誰かのために作ってあげたいと僕は思う。

誰かを応援するような料理を。


しかしそれと商売とはまた別の視点で考えなくてはいけない。

自分たちが生活するためには逆にお客さんに応援してもらえるような店にしなくてはいけないからだ。

最近は飲食店も様々な働き方改革が叫ばれている。

「労働時間」「Uber eats」「ゴーストキッチン」「昼夜別形態」「副業」などなど、挙げればキリがないほど多様化している。

もともと正解が曖昧な業界がさらに多様化してきているのだからコンセプトなんてそうそう簡単に決められるはずがない。

誰のため?どんな料理を?いつ?どこで?
内装は?食器は?サービスは?

SNSや、YouTubeをやらなくては置いていかれる?

誰も思いつかないような革新的なビジネスモデルは一見すると聞こえは良いが、所詮扱っているものが食い物なので、なかなかお客さんにも定着しづらいことが多い。

万が一バズったとしてもそれはほぼ一過性のもので、去年流行ったものが今年も流行るなんてこともまずない。

流行ることはもちろん嬉しいが自分の料理がまるで使い捨てのように忘れ去れるのは寂しい。

なんて随分と虫のいい話だろうか。


「結局長きにわたってずっと愛され続ける食べ物って素朴でシンプルなものに行き着いたりするよな…」
なんてどうしても思考が否定的で消極的になってしまう。

いつから自分はこんなにチャレンジ精神のない男になってしまったのだろうか。

料理人を目指したあの頃は食べてくれる人、喜んでくれる人が明確にイメージできた。

またその時のようなどこか温かい気持ちを取り戻したい。


この頃は自分の方向性に悩んでばかりだが、こうしてアウトプットするだけでも自分の気持ちを確認する良いきっかけになっている。


何かに没頭するって難しいものだ。



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高橋 優介@越後妻有の料理人タカハシ
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