正常を求め彷徨い、狂気へ辿り着く。

◼️異物が入った靴を履く

頭(の調子)が悪い。
緩い頭痛がする。
きっと梅雨のせいだ。

気分が乗らない。
いや、ノリノリな時期が今まであったか?
私の人生のハッピーアワーは
むしろ異常事態でヤバそうだ…。


不満を口にしながらも
学校や勉強や仕事が楽しくて、

やってみたいことや欲しいものが
何となくでもあって、

自分の中の知識や能力が
少しずつ増えていくのが意識できて、

人や社会の役に立つことに
心から喜びを感じて、

そんな人生を送れたら、
どんなに素晴らしかっただろう。


今からでも遅くない!
明確にした目標に向かって、
努力すれば…


誤解を与えてしまって申し訳ない。

どれほど素晴らしかろうが、
私は、そんな人生を送りたいとは、
ほとんど思っていない。

理解できないのも無理はない。

羨ましく思うものと、
求めるものが、
完全には一致しない。

という自身の思考回路を
私も把握し切れずに
ずっと持て余している。


◼️羨むもの≠求めるもの

例えば、

私はさほど
「人や社会の役に立ちたい」
とは思っていない。

だが、

「人や社会の役に立ちたい」
と強く望む人を
非常に、とても、羨ましく思う。

貢献欲は、
労働や人間関係を、人生を、
これでもかというくらい
充実したものにする、
ということを知っているからだ。

また、周囲は貢献欲を肯定する。
非常に崇高な精神だ、と褒め称える。
と同時に、貢献欲を持つ人自身を、
周囲は無条件に肯定する。

正(+)の相乗効果が半端ないのだ。

貢献欲で強固に繋がった、
世間と個人の果てしないWin-Winな関係を、
私は、堪らなく羨ましいと思う。

一方で、
貢献欲自体が、どうしても欲しい!
とは、どうしても思えない。


◼️優先すべきは思考か嗜好か

私にとって、
羨ましく(求めたいと)思うものと、
心の底から求めるものとは、
微妙だが確実に異なる。

この思考と嗜好のズレを抱える限り、
私の人生から違和感と不快感は消えない。

自身が嗜好するものを捨てることで初めて、
私は理想の人生を送れるのだ。

私の全ての嗜好を捨てることが、
私の理想であり、目標だとしたら、
それは私という人格の〈死〉ではないか?

いつも、ここで、
思考が行き止まる。


そして、嗜好の方へシフトする。

思考の矯正は、好ましくない。

私が羨ましいと思い、
求めたいと願うもの(=思考)は、
世間が無条件で〈是〉
と規定するものなのだから。

矯正すべきは、私の個人的嗜好なのだ。

世間に全く貢献しない
私の嗜好の正当性を証明し、
周囲から承認を得る。

そんな高度な能力を
私は持ち合わせてはいない。


◼️嗜好の矯正を試みる

不満を口にしながらも
学校や勉強や仕事を楽しもう。

明確な目標を定め、

自分の中の知識や能力が
少しずつ増えていく意識を、
充実感と捉え直そう。

そして、
人や社会の役に立つことに
大きな喜びを感じるのだ。


そんな人生を生きるため、
意識改革を試みる。

宗教はどうだ?

信じられる神も教義も
まだ見つからない。

資本主義教の神(金)の庇護は元々ない。
資本主義教の入信資格(能力)さえ、ない。

一度死んで、
思考回路を一新した方が確実なのでは?

本気でそう考えるようであれば、
まず必要なのは、宗教ではなく薬だ。

精神状態がヤバい…。

と自覚できるうちは、
まだ余裕で大丈夫だろう。

一体、どこで、何を、どのように、
意識的に取り違えることができれば、
私は〈正常ルート〉へ戻れるのだろう。


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