子育ては①に【自己肯定感】②も【自己肯定感】。③④も【自己肯定感】で、⑤も【自己肯定感】。

タイトルに「子育て」とあるが、

私は未婚、子無しで、
しかも「子供が欲しい」と思ったことは、
今まで生きてきて、一度もない。

おそらく、今後もない。


「子供が好きか」と問われれば、
それぞれの個体に選る。

子供だからといって、
無条件に愛情や好意は注げない。

おそらく、
「血縁があるから」という理由だけで、
無条件の愛情や好意は抱け(か)ない。

姪や甥や、その辺ですれ違う子供に、
私が愛情や好意を向けられるのは、
彼らとの良好な関係性や距離感に依る。


というわけで、この記事は、
「養育者」ではなく、
「被養育者」としての見解
を述べたものである。

子育てに関わる方に、
何かを期待させてしまったのであれば、
なんか大変申し訳ない。


◼️すべては【自己肯定感】

私の主張はタイトル通り、
子供に【自己肯定感】を与えられたなら、
その子育て(教育)は(ほぼ)成功!
ということだ。

私にとって【自己肯定感】を持つとは、
自我のコアに絶対的な安全圏を構築する
ようなイメージである。

そして、それが一度成立してしまえば、
外部からは(ほぼほぼ)不可侵となる。

希にチート級の【自己肯定感】を持つ人が
存在するのは、そのためだと思っている。


【自己肯定感】がある程度あれば、
どんな失敗をしようが、
どれほどの挫折をしようが、
誰に何を言われようが、

きちんと立ち直ることができる。

自分自身(自我のコア)と、
自分が得た失敗、挫折、外部評価などは、
それぞれ別々のもので、
改善対処すべきは後者のみである、
(自分自身はそのままで良い)
と認識することが可能になるからだ。

だから、

【自己肯定感】さえあれば、
どんな人生でも(大概)幸せになれて、
何事も(大方)何とかなる。
(と思っている)


◼️私の【自己肯定感】

なぜ私がこれほど【自己肯定感】を
連呼して、推して、欲するかといえば、
私の【自己肯定感】はほぼほぼないからだ。

思考や見解が異なる他人を前にすると、
「十中八九、間違っているのは私」で、
私の感覚はどこかオカシイに違いない」
と(今でも)思う。

「絶対に正しい!」と思えるようなことも、
「私の知らない現実や理論が存在する」
と考え始め、やがて
「絶対に正しい、とは私が思うだけであり、
正真正銘の正しさは
(私の思考とは)別にある(のでは?)

という結論に達する。


良心的な人からすれば、
「とても謙虚な人」に映る反面、
大概の人からは、
「弱者」としてぞんざいに扱われる。

この世に良心的な人が、
決して少なくないことは知っている。

だが、
そうでない人からの言動の方が
圧倒的にインパクトがあり、
その影響力は計り知れない。

つまり、
【自己肯定感】の低い私は、
結構な生きづらさを抱えて、
この世に存在している。


◼️【自己肯定感】が(足り)ない

「私が間違っている」
可能性があるとすれば、
「相手が間違っている」
可能性も十分あり得る。

その理屈は当然解る。
理性では。

だが、

その当然の理屈を
どうしても受け入れられないのだ。
感情的に。

それはおそらく、
私に必要最低限の【自己肯定感】が
備わっていないが故だ。


◼️【自己肯定感】があれば

「私は正しい」し、「貴方も正しい」。
「私が間違っている」かもしれないし、
「貴方も間違っている」かもしれない。

それらの可能性すべてを
(ほぼ)同じウエイトで考えられる
【自己肯定感】があれば、

同じグループにいたあの子の言動を前に、
きちんとした怒りと嫌悪感を
少なくとも自分自身に表明し、
本当の自分の感情を受け入れられたハズだ。
(「あの子は、私を不当に扱っている」)

本音を伝えることにより
元恋人と対等な関係性を築き、
自分の尊厳を守れたハズだ。
(「何それ?…何か違くない?」)


◼️【自己肯定感】の獲得方法

私はなぜ
こんなに【自己肯定感】が乏しいのだ?
と考える。

おそらく、その原因は、
家庭環境(心理的安全性が不在)と
私の気質(我が弱い)にある。

「心理的安全性(psychological safety)」とは、組織の中で自分の考えや気持ちを誰に対してでも安心して発言できる状態のこと

心理的安全性とは |
人材育成・組織開発 お役立ち情報・用語集


弱者(子供)が本音(感情)を言葉で、
または、非言語で示す場合に
絶対的に必要となる【心理的安全性】
私は幼少期に感じたことはない。

また、

自分の要求を通すこと(メリット)と、
自分の言動に否定的な態度を取られ、
傷つくこと(デメリット)。

私は後者のデメリットを被る方が、
ツラいし嫌だったし精神的にキツかった。

当時このような感情を言語化する能力など、
もちろん持ち合わせていない。


だから、
「言わなければ、何も分からないでしょ!」
私は、そう言われるたび、
相手からの威圧的な態度や空気に萎縮し、
どうしようもなく無言になっていた。

明らかにイラついて、
感情をコントロールできない上位者に
「絶対に怒らないから」
と言われて馬鹿正直になれる者はいまい。


【心理的安全性】の下、
拙い感情や思考を言葉にする訓練を重ね、
共感や承認(=【自己肯定感】)を獲得し、

その過程で、現実(社会)内において
自己意思を健全に反映する方法を学ぶ。
(=【自己肯定感】の強化)

それらの機会に恵まれることなく、
私は大人になってしまったのだ。


◼️【自己肯定感】は任意

【自己肯定感】が低くとも
(最悪、なくとも)生きては行ける。

自分を必要とする存在(恋人や子供)、
社会的な役割などを得て、
世間(他人)から求められた
具体的な何かに応える過程で、
〈肯定感〉は得られるからだ。

だが、
世間(他人)からの承認(の基準)は
絶えず変化する(可能性がある)。

自分の存在の拠り所
自分の意思とは無関係に、
そして、流動的に変化する環境は、
決して居心地の良いものではない。


◼️【自己肯定感】は必須

冒頭でも述べた通り、
私は子育て部外者であり、
育児の現実を知らない。

だが、
子供の衣食住と教育を保証するため、
養育者が日々、身を粉にして
生きていることは知っている。

私は、もう子供ではなく、成人だからだ。


それでも尚、

衣食住と教育を
保証されるだけで
十分幸せだろう。

と見なす養育者の見解に、
私は到底承服できない。

子育てに【自己肯定感】は、
衣食住と教育と同等(もしくはそれ以上に
必須なのだと主張する。


【自己肯定感】が不足した人生。


それは、
自分ではない不確定な誰かや何かから、
常に、際限無く、底無しに、
〈肯定感〉や承認を請い、求め続ける

地獄にも似た人生だからだ。




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