人生いろいろ。生きる戦略もいろいろ。(生きることと正しさ)
◼️我が祖母の人生
私の祖母の人生は、
典型的なマンガのようだ。
経済的に貧しい家庭に生まれたが、
働きながら学び、努力し、
産婆という職を得て、
女性ながら経済的自立を目指した。
今の世なら、
その努力が(その当時以上に)報われて
バリバリのキャリアウーマンになり、
(↑時代錯誤の死語感漂うワード?)
彼女はキラキラ✨ギラギラしていた
に違いない。
彼女は生まれる時代を
完全に間違えたのだ。
そして、
間違いなく孫の私より
強く賢く真面目に生きた祖母は、
その性格ゆえに、
晩年は老化による能力低下に苦しみ、
(おそらく鬱状態になり)
最期は自死という選択をした。
向上心溢れる人だったので、
日に日に出来ないことが増え、
出来ることが減り続ける現実に
耐えられなかったのだろう。
◼️我が人生
そんな祖母の影響かどうかは不明だが、
孫の私は能力不足を自覚することに
全く動じていない。
自分がどうしても出来ないのなら
▪️他の誰かにしてもらえるよう頼むか、
▪️出来なくても済む方法を考えるか、
▪️きっぱり(もしくは、渋々)諦めるか、
いずれかの選択肢を迷いながらも選ぶ。
生物が進化のあらゆる過程で
その時々の環境に適応してきたように、
今の自分の身の丈に合った
生き方(方法)を選べば良い、
と私は考えるからだ。
そして、
にっちもさっちも行かなくなったら
「死ぬ」のだ。
どんなに生きたいと乞い願い、死に抗い、
なりふり構わず生にしがみついた、
としても。
それが「生きること」だと思っている。
そこ(生きること)に、正しさなどない。
そもそも、
生きることにおける「正しさ」とは
人間的な思考概念であり、
生物的視点から見れば
その価値は限りなく任意だからだ。
◼️人間か、それ以外か
苦境に立たされた人は、
努力と希望を総動員して
現状打破を狙うタイプ
と、
苦境に適応することにより
生きる道を模索するタイプ
に分かれる。
前者は人間的理性主体で、
後者は生物的本能主体だ。
そして、
我が祖母は前者で、
私は間違いなく後者だ。
◼️生における幸福
環境(苦境)への適応=
楽な方に流される「弱さ」と捉え、
非人間的だと考える方は、
「ただ生きているだけ」では良しとせず、
人生に生き甲斐や、何らかの意味や成果を
求めずにはいられない。
おそらく、
その人間的で崇高な「正しさ」に、
祖母は最期の最後に打ちのめされた。
清く正しく生きた彼女は、
果たして幸せだったのだろうか。
清く正しく生きるどころか
清さも正しさも求めてすらいない私は、
不幸な人生を歩んでいるのだろうか。
◼️生は素晴らしいか
「生きることは素晴らしい」と思う。
【生物】としての本能主体の私は、
間違いなくそう感じる。
誰の何の役に立たずとも、
何も生み出せずとも、
五感のいずれかで感知する心地よさは
迷わず「幸福」を指し示す。
だが一方で、
「生きることは素晴らしい」とは思えない。
【人間】という理性主体の私は、
どうしてもその結論にしかたどり着けない
◼️自由か、絶望か
楽で、選択肢が狭まる方向を選ぶ私は、
行く行くは不自由という「絶望」を招き、
間違いなく死に至るのだろう。
だが、
自由度が拡大する(困難な)方向を選ぶ、
という選択肢を考えた場合も、
「絶望」を経由し、私は死に至るだろう。
「選択の幅が広がる」という理由だけで、
成果や行為自体に何の魅力も感じない
ただ苦痛で不快なだけの経験を甘受できる
サディスティックな嗜好を(残念ながら)
私は持ち合わせていないからだ。
苦行や苦労に耐えられるのは、
自らの強い欲望の為せる業である。
明確な目標がない私には、
自由度が拡大する方向に、
私が欲する選択肢(幸せ)が
存在するとも思えない。
結局、どちらの方向を選択しても、
「絶望」の後、私は死ぬのだ。
◼️生か、それ以外か
おそらく、
苦境を克服せんとする
(=困難だが、あらゆる可能性を高める)
人間的理性を主体としていたならば、
私はとっくの昔(10代後半)に
生きることを放棄していただろう。
私が今、こうして生きていられるのは、
生物的本能を主体とした結果である。
理性と「正しさ」を求めた後、
自死した祖母と、
「間違い」とさえされる選択をしながら、
本能的に生き延びている私。
人間的に「正しい」のは、
「正しい」と見なされる生き方とは、
果たしてどちらなのだろう。