泣きながらしか本音を語れないが、その悲しみや涙に意図はない。

本音を言葉(思考) にしようとする時、
私は何故か「涙」が伴う。

いい大人(というか初老)になった今も
それは変わらない。

だから、本音を口にする機会は
極力避けている。

そもそも、本音など言わない方が、
大概の人間関係はうまく行くものだ。


泣きながら話す人は、
同情を誘発することで、
相手より優位に立とうとする者だ。

つまり、

泣き落としを試みているだけだ、と
権威のある(かどうか私は知らない)
誰かが、どこかで、そう主張している
のを聞いた(観た?)ことがある。

だが、

その「泣きながらしか本音は語れない」
当事者の私としては、どうも解せない。


◼️「泣く」コスパ

一般的に考えれば、
「泣く」とは感情的になることであり、
それは精神的にとても疲れる。

そのため、出来ることならば、
人はそもそも泣きたくなど、ない。

乳児が泣くのは、
泣く以外の手段でコミュニケーションが
図れないからである。

また、

「人前で泣く」という恥と引き換えに
相手を妥協させようとする戦略は、
かなりコスパが悪い。

相手を妥協させられなかった場合、
自分が恥をかいただけになる上、

他人を説得するにも、
持論を理解してもらうにも、
論理的思考を適切に言語化すること
最も有効な方法だからだ。


◼️制御不可な不安

「泣き落とし」という選択肢とは、
無駄に感情的になれる気力体力が有り余り、
「人前で泣く」ということを躊躇しない、
感情豊かで恥知らずな人のみの戦略だ。

浪費できるエネルギーも情熱もなく、
「人前で泣く」ことを恥だと感じる私が、
泣きながらしか本音を語れない理由は、

自分の感情を捉え始めると、
極度の不安に襲われる、

という私の気質にある。

楽しい思い出を語るとき、人は笑顔になる。
それは、その人の思考が
楽しい記憶(感情)と結び付くからだ。

それと同様に、

おそらく、私は自分の本音を語るとき、
不安という圧倒的な感情(記憶)に囚われ、
泣きたくなる(ほど不安定になる)のだ。


◼️高純度な弱さ

私は運の良い人間ではないが、
犯罪や極度の暴力には晒されることなく、
普通に生まれ、育ってこれた。

だが、
心理的安全性を感じた記憶が(ほぼ)ない。

ある日、当然、
何かが少し変わっただけで、
自分の存在自体が危うくなる。


そんな感覚が私には慢性的にあり、
時々それを恐怖とさえ感じる。

私は、不安障害なのかもしれない。

だが、不快感を伴いながらも、
何とか日常を送れている私は、
決して「病気ではない」。

その類いの病気の定義は、
「日常生活に支障が出ているか否か」
に尽きる(らしい)からだ。



◼️強者の視点の世

泣きたくなるほど強烈で
不安定な感情

その存在を想像さえ出来ない者が、
涙を同情を引くための安易な手段と見なし、
「泣く」という行為の裏に、
相手の悪意を想定するのだろう。


強い負の感情が
否応なく「涙」という形で
表出されてしまう者は、

感情をコントロール出来ない愚者、
同情を意図する卑怯者、

と認定されるのであれば、
(私にとっては)何とも世知辛く、
生きづらい世である。



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