ラオスで托鉢に参加したら思っていたのと違った
ニワトリが鳴くよりも早く起床した。時刻は午前5時半。まだ街に朝日は昇っておらず、辺りは真っ暗だったが地元民や観光客たちが着々と繰り出している。
その理由は托鉢である。ここ、ラオスのルアンパバーンでは朝一番に橙色の袈裟を召した僧侶たちが列をなし、鉢を抱えてゆっくりと歩く。その鉢へカオニャオというもち米やらお菓子やらを入れていくのだ。
それらは僧侶の食糧になっているようで、加えて貧しい家庭へも分配されているらしい。ラオスに来てから4日が経つが、この街に物乞いがいないのはこの托鉢という共助的な文化の影響が少なからずあるのだろう。
僕自身もこの托鉢をこの身でやってみたいと思い眠い目を擦って外へ出る。真っ暗な市街中心部へ向かう途中、というかホテルを出てすぐに現地人のおばさんに声をかけられた。
「50オーケー」
彼女はラタンのかごを手にし、僕に問答無用でお菓子とカオニャオを渡してきた。お菓子は明らかにパッケージに包装された市販のもので、見るからに甘そうな何かであることは分かった。カオニャオはほんのり温かく、おそらく朝一で炊いたばかりなのだろう。
これを体験したくて街へ出てきた訳だから断る理由もなかった。相場なのかもよく分からずに50,000キープを彼女へ手渡す。日本円でだいたい350円ほどだった。
おばさんはそこへ座って待ってなと、道端に置かれた小さな椅子を指さして言った。いったい、いつ托鉢が始まるのか。分からないが彼女の言う通り、背の低いプラスチック製の椅子に腰かけて待つことにした。
僕は早く着き過ぎたのか、あるいはホテルの立地的な所以もあってか、托鉢用の椅子は通りに沢山並んでいるのだがその先頭に座ってしまった。
夜が徐々に明け始め、空が紫色に帯びてくると、ぞろぞろと中国人らしき観光客が群がり始める。お寺の前に大小さまざまな背丈の橙色をした袈裟がゆらゆらと動いているのが見える。彼らは何も発さずに一列に並ぶ(ゆえに、朝から中国語が飛び交う空間にいる)。
午前6時を過ぎた頃、僧侶たちがゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。だいたい5〜15人くらいで1グループが結成される。そのグループのいずれも一番先頭には年を取ったベテラン僧侶で、一番後ろはまだ小学校低学年くらいの若すぎる僧侶が歩いてくる。
彼らは歩いているときもやはり何も発しない。小学校低学年の僧侶なら、「ドゥクシ!ドゥクシ!」とじゃれ合いながら来てもなんらおかしくはないし、思春期をこじらせた中学生くらいの僧侶は下ネタの一つや二つ言っていてもまあ仕方ないかなと思うのだが、この辺、しっかりと教育が行き届いているみたいだ。
僕なら沈黙に耐え切れずに、「昨日の末包のホームランと菊池、矢野のファインプレー見た?」なんて言ってしまいそうだが、彼らはシーンと沈黙を守り、無表情で列をなしている(まるで広島東洋カープが大型連敗中のときの僕みたいだ)。
先頭のベテラン僧侶が一般席先頭の僕の前に来ると鉢に被せた蓋を取って立ち止まった。僕は生温かいカオニャオを右手で掴み、空っぽの鉢へそっと入れる。すると彼は手にしていた蓋を閉めて何も言わずに再びゆっくりと歩きだしていった。
もちろん僧侶は彼だけではないから、また次の僧侶へカオニャオを入れる。蓋を開けてもらい、カオニャオを入れ、蓋が閉められる。これを繰り返した。が、困ったことが二つある。
まず僧侶、基本的に立ち止まらないのである。ゆっくりと歩いてくれるからまだいいが、次から次へと僧侶が来るのでなかなか焦る。
しかもカオニャオはもち米なので粘着力のせいでなかなかちぎれないことがあるのだ。すると僧侶は立ち止まってくれるのだが、まるで早くしろよと無言の圧力をかけられているのかと思ってしまう。
だが、こちらとしても次第に托鉢の方法を心得てくる。それはカオニャオを鉢へ入れるのではなく、「投げる」のである。
これが正しいかどうかは分からないし、僕が子どもだった頃、散々「食べ物で遊ぶな」と言われて育ってきたので多少なりとも罪悪感はあるのだが、立ち止まらぬ僧侶に背に腹は変えられぬ。
なるほど。これが托鉢というものか。実際にやるまでは分からなかったが、簡単に例えるなら「超高速至近距離ストラックアウト」である。
ちなみに僧侶によって難易度が異なり、先頭のベテラン僧侶(中年)は待ってくれるので難易度としては易しいし、小学生僧侶も律儀な子どもが多いからかゆっくり歩いてくれる。一番難しいのは列中盤の中高生僧侶で、早歩きをされたり、こちらがカオニャオをちぎるのに時間を要していたら一度だけスルーされたこともあった。
やはり思春期なので「托鉢とか正直言ってダルすぎ!」という思いはあるのかもしれない。どこの国でも、僧侶でも、思春期は世界に共通する通過点なのかもしれない。勝手な憶測ですけど。
僕が投げ入れる際の配分が良くなかったのか、カオニャオはあっという間に無くなってしまったので、今度はお菓子を投げ入れることにした。
が、入れているときにふと思った。これはカオニャオとお菓子が一緒になって鉢に入るのか。しかも素手で入れたもの。そしてこれを食うんだよな……
食べられなくはないが何か嫌だ。僕の学部時代の友人に潔癖症がいるのだが(彼は死ぬほど手洗いを徹底したがいち早くコロナに感染していた)、彼にこの光景を見せたら何というのか非常に興味深い。もちろん観光客のなかにはビニール手袋をしている人たちもいたが、いずれにせよ不特定多数は素手でそれらを鉢へ入れているのである。
この衛生面たるや。彼は托鉢という文化を知ってしまったらもう二度と眠りにつけないのではないか。少し心配なのでこのことについては秘密にしておこう。
ところで、この托鉢をしてみて気づいたのは僕も含めて多くの観光客が参加しているということだ。どうやらこのルアンパバーンのメイン通りは観光客が多いらしく、一本外れた通りでは現地人が多くいるとのことだったので、僕は早々に自らの托鉢体験を終えて、メコン川近くの閑散としている通りに来てみた。
するとそこには現地人らしき人たちが托鉢に向けて準備をしていた。カオニャオを炊き、それを手にして自前の小さな椅子に腰かけている。
一人で真摯に托鉢を行う現地人もいれば、おばさん二人で世間話をしながら僧侶が来るのを待ち、挙句小学生僧侶に対して何か口を挟む「カジュアル婆式托鉢」も垣間見えた。
しかし、いずれにしても托鉢とは皆一様にカオニャオやお菓子を素手で「投げる」ものであった。カオニャオを鉢へ投げつけたとき、この国の土着を肌で感じ取ることができるだろう。
ちなみに僧侶たちが来る前にカオニャオを一口食べてみたのだが結構美味しい。噛めば噛むほど甘くなる感じで美味である。是非ともここラオスでカオニャオを口に入れ、咀嚼し、そして投げてみてほしい。
朝日が昇って僧侶たちの鉢がパンパンに膨れ上がった姿を見た時、この文化が素晴らしいと思うか、汚いと思うか、それであなたの潔癖度合いを測ることも可能である。