『世界史の針が巻き戻るとき』でABD②
マルクスガブリエル読書会二回目、今回は三章、『価値の危機』について読み解き、対話しました。はじめに出た問いは、「なぜ、ヒューマニティは認識できないのか」。私たちたちが生きる時代では、SNSや差別主義によって絶えず私たちのヒューマニティ(人間性)が覆い隠されています。ヒューマニティをきちんと見つめ、相手と向き合うことを、なぜわたしたちはできないのか。とても重い問いによって対話がスタートしました。
・平家物語における日本人の死生観とヒューマニティの間にはギャップがある。同様に第二次大戦の沖縄戦で自決した人々は死ぬべきではなかった。日本人はヒューマニティを軽視する傾向があるのではないか。
・筆者は日本人と「新実在論」、との親和性は高いと述べているが、それには日本人の八百万の神が関係しているのではないか。一方で、夏目漱石が言う「上滑りの文化」である日本人は表面的にしか西洋の文化を取り入れてないのではないか。
・筆者が述べる文化相対主義とは、人間は文化によってきっぱり分かれているという考えだが、共産主義も共産主義圏以外の人間を排除する点で文化相対主義と同じである。
・原子爆弾を上空から落とした(指示した)アメリカ兵は、実際に被爆地を訪れたら、日本人への感情が憎しみから同情に変わった。大きいスケールで相手を非人間化することで攻撃できた一方、実際に起きていることを小さいスケール見ることで人間化することができたのではないか。新しい実在論の必要性はこういった場面にあるのではないか。
・コロナ禍の見方も同様で、統計的に見るだけでは分からないことが沢山ある。実際に個別に起きていることに目を向けていくことが大事なのではないか。例えば、「コロナウイルスは感染率や死亡率が低いから風邪と同じである」という言説は、医療現場や保健所で起きている事態を考慮していない。あるいは、都合の良い統計を切り取ってみているに過ぎない。ヒューマニティを覆い隠した見方であるのではないか。
私たちが生きる現代は、日頃から、バーチャルで統計的な世界観に晒されていて、個別性を考慮しない傾向にあるように思います。そういった見方が私たちをお互いに非人間化し、分断していくのだとしたら、とても危険なことだと思います。新実在論は、こうしたマクロで非人間化したら見方を変える一つの指針となる可能性を秘めているように思いました。
(2020年8月13日)
(続く)