鏡を振り返りバイバイと手を振る子ども
トイトレを最近頑張っている。
うまくでないと「でないよ」という。「ここ」と言いながら、トイレットペーパーをいたずらする。出ないときには使わないよ、と言ってたしなめるけれど、にこにこと笑って、納得いかない様子だ。必ずカラカラするんだと信じているので笑顔なのだ。
両手をつないで「ちっこちっこちっこ」と応援してもできないときはできない。
「トイレ行こう?」というと「トイレイキナイ(行かないの意)」というので「ほんとに~?」と聞くと、「ほんとにー」と返事をするので面白い。転がって、足をびろっと広げてにこにこ笑う。
手を洗った後、タオルで手を拭いて(最近自分でできるようになったが手の甲は濡れたままのことが多い)、そして鏡にバイバイと手を振る。
少し前までは「ババイ」だったのに、バイバイになってしまった。
思えば、赤ちゃんで寝ていることしかできなかったころと比べて、いろいろなことを覚えてきた。教えないと、ストローで水を飲むこともできなかったのに、今では手先も器用になって、場面によって何をするべきかわかっているし、言葉で指示をすれば、それを理解し実行できるまでになった。
お誕生日会が園であったのだが、「○○ちゃん、さんしゃいよ(三歳よ)」と言って指で三歳を表して、みんなに自己紹介ができたらしい。教えていなかったのでそれを聞いて驚いた。
数日前からお誕生日会だね、楽しみだね、ケーキもあるよ、と伝えていたのがわかったんだろうか。
去年のお誕生日にいただいた「わにわにのプレゼント」を何度も読み続けて、お誕生日の概念をなんと理解していたらしい。本当に大好きな絵本で、去年からずっと写真を貼ってあるページに来ると「○○ちゃん」と言って指さして、自分のことも指さしてにこにこしていた。わんわんのTシャツを着た写真で、衣替えの時に出したら、そのTシャツを見て「おたんじょうび!」と教えてくれたこともあった。最初何のことかわからなかったけど、自分でわにわにの絵本をもってきて、指し示してくれたのでわかった。
絵本での学習の成果が実ったんだろうか。
夜寝る前も「めろさん、みかさん、○○ちゃん、さんしゃいよ、けーき」と言って、一日にあった出来事を教えてくれた。めろさん、みかさんというのは、めろんぐみさん、みかんぐみさんという意味だ。その二組で集まったということを教えてくれたらしい。
その日は興奮したせいか、それとも頭を使ったせいか、夜泣きを何度もしていた。
そして「これ、チゴウ、これ、チゴウ、チゴーウ(違う)」と言って夢の中でずっと怒っていた。どうやら私たちが嫌なことを強いている夢を見たらしい。
顔もしかめっ面になっていて、寝顔を見て笑ってしまった。頭をなでていたらまた眠っていた。
昨日は、私にポリープができていたのを取ったので、仕事を休んでいた。だから、夜も家族団らんで(普段夜どちらかは家にいない)、それがよっぽど楽しかったのか、はしゃぎまわって、ソファーの上から飛び降りていた。飛び降りるときには、怖いのか、「あっこ」と言って、私と手をつなぎたがって、両手でつかまりながら、ジャンプしていた。ジャンプをするときには「じゃんぽん」という。
興奮して「〇〇ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん」と自分の名前を連呼して跳ねていた。布団の上でジャンプするのが好きだ。
そのあとは、しばらく遊んでおらず、しまい込まれていた古いおもちゃを引っ張り出して、順番に見せてくれた。自動車や、ハッピーセットの手裏剣のおもちゃ、ネックレス、カップとドーナッツのおままごとセット、そういうのを全部出して、一緒に遊ばせてくれた。
クーピーを出して、サランラップの芯に通して落としたり、ボールポールを引っ張り出して、ニ十個ほどのボールを入れて、その中で転がりまわって、泣いているときみたいなひぃーひぃーした声を出して盛り上がったりしていた。
そして、「おたづけ」「おたたづけ」と言って、自らお片づけをしていた。そして、終わると「キレイニナッタ!」と言って跳ね回って喜んでいたので、うんと褒めた。
「しゅっごいしゅっごい、すごすごすごーい」と言って頭をなでて抱きしめると、誇らしそうな様子で鼻を高くする。これは、前、子どもが私をほめるときに言ってくれた言い回しで、あんまり嬉しかったので、自分も使うことになった。また言ってほしい。
子どもに言われると、本当に幸せな気持ちになる。自分が取るに足りない人間だという現実があっても、そうはいっても、小さい子に肯定されるというのは、甘い気持ちにさせられる。それに甘えてもいけないと思うが、毎日の現実のあれこれ、バタバタを経験していると癒されてしまう。嬉しいありがたい、と思う一方で、気を使わせてしまっているという淡い罪悪感に引き裂かれている。
親はどうしても、子どもに甘えてしまうところがある。
子どもは、親をいつも許すところがある。
例えば、怒りすぎたことを後悔しても、「ダイジョウブヨ」「ゴメンネ」と言ってくれる。
必要で叱っていても、勢いがついて、叱りすぎてしまうことや、感情的になってしまうこと、がっかりして泣きたくなってしまうことがあって、手を出さないにしても、こんなに小さい子なのに、こちらの葛藤が強くなりすぎて、理不尽なことをしてしまいそうになる。子どもは、悪さをほとんどしないし、したとしても、本当にちょっとしたことだったり、悪気がなかったりする。それがわかっていても、焦って、このままではいけないのだと思い詰めてしまって、どうしてわかってくれないんだと思う。わかってくれないのは当然で、それは幼いからなのに、そのことを思い詰めてしまう。
この子には逃げ場がないから、許すしかないのだ、と思うのに、突っ伏している私の髪を優しくなでながら、「ゴメンネ」と子どもがいうので、安心するような、自分の気持ちをコントロールしきれていないことが情けないような気持になって、そして、気持ちがゆるんで、こちらも「大丈夫よ」と言いながら泣いてしまった。
私が普段していることを、子どもが覚えていて、返してくれているだけだとも思うけれど、子どもに大人のような振る舞いをさせてしまうことが、自分としては情けないと思うのに、それでいて、こんなにも優しい子なのだ、だからこそ、もっと大切に育てなくてはとも思う。この子は神様からお借りした命なのだから、自分の思うようにしてはいけないという気持ちを新たにする。
近頃、ひどく悲しい出来事があった。それで落ち込んでいるのだけど、取り乱さないでいられるのは、子どもの存在が大きい。
柔らかい気配がある、笑い声がする、時々泣くので慰めなくてはいけない、食事を嫌がって脱走する、お風呂を嫌がって泣いて服を脱ぐまいとする、抗議をする、桃食べたい、ブドウ食べたい、牛乳飲みたい、クッキー(おせんべいのこと)を食べたい、という、なだめすかして、一緒に遊んで、テレビを見ている横で、スマホを見ていると、足がくっついてくる、そのすべすべした感触と温かさで思わずなごんでいて、それがほとんど意識に上がらず、無意識でのことでも、何よりも安心して、この子はちゃんと生きているのだから大丈夫だと思えて、そうしたことが、私を生かしている。
私は病気のせいもあって、今まではかなしいことや情けないことが起きたら、すぐ死にたくなっていたのだけど、今はかなしいだけで死にたくならない。乗り越えられるだろうと確信している。
悲しい気持ちと死にたい気持ちは全然別なんだと知った。
私はどうしようもなく悲しいけれど、死にたくも消えたくもなくて、ただこの日常が続けばいいと願い、それが叶いそうな希望をもっている。
寝ているときも起きているときも、イヤイヤしているときも、トイレに失敗してゴメンねと言いながらも全然子どもが、全然しょんぼりしていなくて、けろっとしていることにも救われている。何かを落としたり水をこぼしてしまったりするときに、こぼしちゃった、ザンネン、というときはちょっと落ち込んでいる様子もあって、そういう成長を感じるときにも、動物のパズル(モンキーパズウと呼んでいる)がうまくいってほめてほしそうなときにも、誇らしいような、くすぐったいような、湧水がわくのを見ているような気持ちになる。タブレットを出してほしくて、「あっこ(抱き上げて棚を捜索させろという意味)」と言って隠してしまっているところまで連れて行けと駄々をこねるときもかわいい。
タブレットのことは、「あかいやしゃい(野菜)」と呼んでいる。赤いカバーで、野菜のゲームがあってそれが一番好きだから。
鏡に映る自分を、自分だと思っているのか、よく会う友達のようなものだと思っているのか、まだわからないけれど、鏡に向かってバイバイという子供のことを、きっと私は忘れてしまうだろう。忘れてしまう日々がいとおしくて、寂しい。