元・好きなもの難民
好きってなんだ?
29年生きてきても自分の好きがまだまだ分からなくて。
というか、ようやく、自分の好きを少しずつ認められるようになって、そんで探し、見つけ、手に入れて愛で中。
ずっと自分みたいな人間が好きなものなんてあってはいけない、おこがましいと思って生きてきていて。
例えば、人生で告白したことはない。
なんていうんだろう、人を幸せにする自信がないんだよなあ。
私が好きになる人は、私といるよりも他の誰かといる方が幸せなんじゃない?という想像を勝手にしては、その可能性に自分の心が打ち勝ったことがない。
相手の幸せを考えれば考えるほど、自分とじゃないほうが相手は幸せになれるんじゃないの?と頭に過ぎったらもうそこから動けない動かない。
なにより自分が幸せになる自信がなかったんだろうけども。
そんなこんなで色恋沙汰はお休み中。
結局のところ、相手の幸せなんて本人にしかわからないし、何をもって幸せだったか、そもそも幸せを求めてたかどうかなんて分かんないけど。
***
なんで好きがわかんないのか。
それを考えた時に、子供の頃の親や親族の影響があると思う。
子供なりに好きなものはあったはず。
セーラームーンとか、好きだったはず。
かわいい服だって欲しかった。
けど欲しいものはいつも得られなかった。
いつの間にか、親や周りの大人ののいいものを好きと言わなきゃならなくなっていた。
私の好きな物はあんたには似合わない、あんたには合わない。
周りの子がシルバニアファミリーやらリカちゃん人形とか持ってても、自分は得られなかった。
今となってはそういうのは欲しくないと強がる子供心しか思い出せないけど、みんなが持ってるものを自分が持ってない引け目はいつもいつも感じていた。
ビーズが流行っても買って貰えないから、やさしい友達が分けてくれたりはしたけど、交換できるわけじゃないから次第に輪から外されるし、惨めだし。
子供の頃の我が家は豊かな方ではなかったから、あんたにはこれ!と安くて適当な私の好きじゃないものを持たされる。
与えられるだけありがたいのかもしれないけど、大人ならそれでもいいけど、子供のコミュニティで生きるには結構しんどかった。
そして次からは忖度して親のいう例えば無難な安いものを選べば、ほらやっぱりねと負のループ。
決して安いものが悪いわけでもないし、親が悪い訳でもないんだと思う。当時の状況からして、育ったんだから御の字。
だけど好きな物を選ばないということに慣れると何が好きなんだかが全く分からない。
ある意味楽してきたんだよね。
ねえ、好きってなんだっけ?
思い出せないよーってより
知らないよー分かんないよーって感じ。
けど私は私の人生を生きているから。
私の好きがあって当たり前。
もう子供じゃないから、自分で手に入れられる。
それに気付きはじめたのが25歳の後半頃。
おっせーけど、これも私の人生で。
好きなもの難民を脱しようと足掻いてもがいて、数年かけてようやく自分の時間、自分のお金で好きな物を見極めて手に入れて愛でている。
この満足度は恐ろしくて。
慣れてないから時に依存しそうになるけど。
やっぱり自分の好きが分かること。
自分の周りに好きが増えるのは嬉しい。
当たり前の幸せを享受出来ているこの感じ。
遅ればせながら満喫している。
もっと見る目、選別する目を養いたいし。
好きなものを大切にするスキルが欲しい。
自分が好きなものを好きと言える場所で生きられることはとても幸せ。
そしてありがたい。
好きなものを好きと言っていい。
これは嬉しい。
そんなこんなで元・好きなもの難民。
まだまだ進化中の巻。