お話します。※ヘッダー画像は彼氏です
で、今作はいったい何がしたかったんですか?
ジョーカー2、話としては「知恵の働かぬ、惨めな中年男性がものの弾みで大バズり、Twitterを通じて知り合った””””速くて若い女””””にもしっかり手を出したものの、所詮はまぐれであって当人に才覚がある訳でもなく、女にも棄てられ、最終的にかなり惨めに死ぬ」だったと思うんだけど、これやる意味あったのかな
というのも前作のジョーカーが基本的に「ホアキンが自己を獲得する」という、かなりストレートな成長モノだったと思うんですが(ただしその手段が殺人であり、獲得した自己は悪のカリスマな訳ですが)(例を挙げるとサラリーマン銃殺後の、公衆トイレの鏡の前のダンスシーンとか。ダンス繋がりでいけばあの階段でのダンスも。暴力を経て順調に「新しい自分」を獲得していっている)(最初のダンスとかはまさにそうだよね、ホア氏の、あのいびつなダンスを、ねっとりと尺と重厚な劇伴を使って「劇的に」画面に出してる訳で)
そうやって、最後は”父殺し”まで達成し、暴徒の前で踊って見せた訳じゃあないですか。悪のカリスマとして。
というのを今作(特に中盤~後半の裁判パートにかけて)では完全に否定し尽くしている(裁判パートが特にヤバく、只管にキモくて弱いおっさんみたいな話をやっていたなあ)のが、制作側はマジでどういう態度????? という気持ちにさせられました。
個人的に何が引っ掛かったかというと、今作で否定しているのは何もアーサーだけじゃ無くて、「前作そのもの(つまり、悪の成長譚としての映画ジョーカー1)」じゃね???? という気持ち。
それは映画として、続編としてやる意味あるのか。
しかもハリウッド・マネーで
「知恵の働かぬ惨めで哀れな犯罪者に人権なんてねーんだよ(ギャハハ)」みたいなストレートなメッセージなら、まあそうかなと思う一方、これ映画やんけ、とは思う。
映画ならとことんやれば良いじゃあ無いですか(果たしてそうかな?)。何で今更「や、殺人で成すのはやっぱ駄目だな!」みたいな顔してるんだ。
いや「哀れな道化としてのアーサー」というのは分かる、分かるんだけど、なんかこう、映画としてのカタルシスというか、センスオブワンダーというか
「現実を超越した何か」みたいなものが見たいじゃないですか。せっかく劇場に行ってるんだからさあ!!!!
何でホア氏は日和ったんだろう????
元同僚(パドルスさん。というか実質「人を殺さなかったほうのアーサー」)との会話で善良な心が蘇った???? 分かんねー
おそらく私がジョーカー2がピンと来てない最大の要因がここにあると思う=つまり何故アーサーは土壇場で日和ったのか????
元同僚とのカンバセーション後、刑務所へ帰宅すると待ち構えていた看守たちに暴行→しかも弾みでファンの若い男がうっかり事故死、ここで回想として流れるのが前作で三人銃殺後、最初のダンスを終えた後(?)、トイレの洗面台で顔=ジョーカーの白塗りメイクを落とすホア。
これは(演じる役柄としての)ジョーカーから素のアーサーに戻る=ジョーカーらしさから降りる(実際このあとの裁判所パートで陪審員に「ジョーカーやめて、普通の男の子に戻ります!」発言につながる)、というシーンだと思うんですが、なぜジョーカーから降りたくなった???? のかがマジで分からん。憎むべき看守にボコボコにされたうえに同じような立場の若い囚人もうっかり殺されてるのに、なぜホアはジョーカーから降りたんだろう????????
たぶんここが分からないので私はジョーカー2が分からん、という話になるんだろうな、と思っています。終わり
「前作で余りにも影響が大きすぎたので」「責任を取る意味でもアーサーをサァ〜」みたいなのをチョコっと見たZAPねぇ、立派だと思う
と同時に客を舐めて無いか? とはチョコっと思うZAPねえ チョコっとね
関係ないけど割と最寄りにチョコザップ出来たんだけど小人さん用なんだろ? ってくらい狭くてびっくりした
ホア泣き・ガガ泣き
ラスト、ホアキン氏と「新キャラ」が宇部新川駅の階段を駆け上がるシーンほんまに良かった!!!!!!!!
あとEDが宇多田ヒカルでした 本当です
前半、キス我慢選手権と歌ウマ選手権で、ほぼゴットタンじゃね?
ガガ氏が執拗に土木事業に関心を持っていたのはいったい……
ホア! 山をつくるわよ!
マジで関係ないけどシビル・ウォーでウオ泣き
きみの色はマジで何だったんだ。