宇宙船がその星を離れるとき、あろうことか船内果樹園に勤務する職員が検疫を通さず一本の苗を船へと持ち込む。そして果樹園の一角、目立たないところにその苗は植えられた。
 長くあてのない航行にあるいはどこまでも広がる暗黒の虚無に嫌気がさしたのか一時の気の迷いか、もしくは後述するような、この木そして果実がもたらす何か抗いがたい超常の、人智を超えた何かが働いたのか、今となっては何故この男がそのような暴挙に出たのか定かではない。ともかく、その一本の苗は持ち込まれ、植えられた。
 長く宇宙を旅するもの、特に彼らのような辺境探査船の船員にとって果樹園はこのうえなく稀有で尊いものである。宇宙で生きる者ならこの点について誰もが肯定する、そうでないものは潜りか単に航行歴の極端に浅いものか「地を這うもの」─船乗りたちは未だ地上に張り付いて空を見上げ暮らす者を陰でそう呼ぶことがあった─と思われた。どんなに頑強にみえる船員であっても長く長く単調それでいて常日頃において細心の注意を求められる船内生活では果樹園は唯一心安らぐことのできるたった一つの楽園であった。暗黒に満ちたこの虚空において果樹園には匂いがあった─木々の匂い土の匂い生きている自然の匂いが─勿論本物のかつて彼らの先祖が生まれ育った星にまだ自然なるものが存在したころの果樹園が持つそれと比べればその総和そしてハーモニーはあまりにお粗末単調なものだったと言えるだろうがなにぶん本物の空や大地や風のなかにある本物の果樹園なんてものは彼らがおぎゃあと生まれる何世紀もまえに絶えて久しいから船員たちにとってはどうでもいいことであった(どうでもいいのなら何故そこまで果樹園に彼らが拘泥するのかについて、これは船乗りの間でも意見が分かれた、例えばひとつあげるとつまり彼らの集合的無意識のなかにかつて追放されたとされる楽園のイメージその残滓が未だ残っているのではないかということである)。
 果樹園は船員の精神的支柱でもあったが同時に実際的な面でも稀有な存在であった。船の物資保管庫に堆く積まれたるは味のしないことこのうえないチューブゼリー─これは遺伝子操作された甲虫の幼虫の一種が原料となっていて味はともかく栄養においては完璧であった─をちゅーちゅー吸っているうちにどれほど顔面温厚なものでも容貌峭刻となり肉落ち骨秀でる。そんな彼らも果樹園で採れる新鮮な、生きている、本物の果物─りんご、なし、さくらんぼ、もも、みかん─を食べる時だけは幸福で満ち足りたひと時に包まれ幼少期のような可愛らしく温厚な顔面に─実際は彼らの多くは長い旅の苦痛が皴として数多刻まれ妙にごつごつとした顔の表面が弛緩したゴムのように不気味にふやけるのだが─。
 さて話をもとに戻す。果樹園職員の彼によって持ち込まれたその一本の苗はすくすくと、いや信じがたい速度で生長し直に他の木々と遜色ないほどとなった。勿論この異様な速さで生長する木について当然ほかの船員たちの知るところではあったのだが─船員ならだれでも暇さえあればまたは暇などなくても己が職務を遂行する上で必要な経路なんですワッハッハおや上官どの何か問題でもとでもいいたげな表情で、もしくは実際口にしてはちろちろと果樹園に足繫く通いえっちらおっちらとろとろ歩くようにしていたからだ─誰もこの件を保安部や上層部へ通告しようなどとは夢にも思わなかった。彼らの関心は一つ、つまりこの新顔が直に実らせるであろう果実、それは一体どんな味なのだろうということであった。彼らは誰も何も言わない、いや通路で食堂で便所で寝室で顔を合わせれば互いが何を考えているかなぞはお見通しだったから。いや既にこの木が持つ不可思議な生態─例えば未知の物質を飛ばし他の生物の行動を自らに都合がいいように誘導するとか─の働きがあったのかもしれない。
 ふたたび話を元に戻す。木は生長し実をつけた。最初にその実を食べたのは他でもない果樹園職員その人である。その彼がいま果実を手に取りぞぶっと齧ると中から果汁がぶわりと拡がり口腔を満たし味蕾のひとつひとつがそのさまを受け取り受け取られた刺激が更に神経を通り脳内のニューロンを発火させるさまがくだんの彼には手に取るように視えていた。彼のニューロンたちが互いに光を放ち、喜び、歌う。爆発的な発光まさしく宇宙がほんとうの虚無から始まるあのひととき、万物創世の輝き、創造主のみわざだ。彼はいま宇宙の発端と、やがて来る終端をみた。そのとき果樹園内の環境設備の定期点検作業のために整備員2名がやってきて、その木の前でえへえへあははと笑い、ただただ突っ立っている彼の姿を認める。彼の傍らには一口齧られたくだんの果実が落ちている。
 果樹園は無期限で封鎖された。船乗りたちは期せずして彼らの父祖の苦しみ、楽園追放の憂き目を再体験する。くだんの彼はそして隔離室にいる。彼とその果実は厳つい図体をした幾つかの複雑かつ高そうな装置へと突っ込まれ、あるいはそれらが彼らの内部へ突っ込まれた。彼はてっぺんからつま先まで一枚一枚スライスチーズの様に丹念に執拗にスキャンされ、血液分泌液ホルモン状態各種臓器の働き排泄物の類に至るまで採集されこちらも徹底的偏執的に検査された。彼はえへえへあははと唯々笑う。しかし如何なる検査をもってしても彼が何故このような恍惚的弛緩状態に至っているかが分からない。果実についても同様何ら特筆すべき点を見出すことはできない。ううむと船医は悩む、頭を抱え、そうそうそんな時には果樹園へ行こうあそこをしばらく歩いていればいつも考えが纏まるのだがああそう果樹園はつい先日封鎖されたのだ、そしてふと隔離室の彼が何かうわごとを呟いているさまを確認する、このボケナスめ余計なことをしくさりやがって何をえへえへあははと笑っておるかいっそこいつも例の木もぶった切ってやろうかしらと思う。しばらく彼のうわごとを聞いているといや待てよこいつは妙ださっきから何を言っているのだ。何かの数列、聞いたことのない言語、思いつきに船医は彼が呟いた数列を船のデータベースと照合するとなんたることだ未だに人類が到達していないとある星系の位置情報とぴたりと符合する。次に船医は奇妙な言語について照合する。こちらはこれまた別の星系で発見されたある魁種族の遺構に記された文言の一部とぴたりと符合する。まさかまさかいやいやただの偶然しかしそんなことがと船医は狼狽、その後も彼が話す数列言語化学式文明描写エトセトラエトセトラが次々と符合する。船医は頭を抱え混乱、やがて隠し持っていたウィスキーをぐびぐび飲み酩酊失神のち起床、然るにひとつの結論へといたる。あの果実に含まれる何らかの成分が、かの果樹園職員の脳に作用しその知覚を宇宙規模的に拡張したのではないか、と。
 船医の報告を受けた船長と副船長はにわかに昂奮した。この果実の性質を上手く制御する術を見つければ中央司令部つき艦隊勤務へ昇進することも夢ではあるまい、いやそれだけじゃない、この私が宇宙そのものの命運を握ることだってえへえへあはは、船長と副船長はお互いにそのようなことを考え、お互いの顔を見つめ、そして同時にこのようなことを思う。待てよもし下手を打ってこの果実をほかの誰かに、あのうすのろの船員たちに、この目の前のボケナスにでも横取りされたらたまったものではない。ああいった真に価値のあるものは俺のような人間の手にあってこそまことの働きを見せるのだ。だいたいこの船は俺がしっかりしているからこそこれまでも恙なく任務を行えているのであって目の前のこいつさえいなければ俺はより重要な職務につくことができるはずなのだ。あてもなく星から星へひたすら進み続ける歳月が育んだのか、はたまた唯一の楽園だった果樹園が封鎖されたのがトドメとなったか、ふたりは顔を見合わせえへえへあははと互いに秘めた憎悪を剥き出しに笑う。
 さてこの件に関して言えば副船長のほうが一枚上手であった。彼は早々保安部長を搦めとり船長を当船および中央司令部に対する重大な背任行為を行った咎とかで拘禁せんとする。船長と副船長一派は船内を追いかけっこ、哀れ保安部員の不用意な発砲が船長の腹を貫き致命傷を与えたもうた。息も絶え絶え己が野望が潰えるのを悟った船長、しかしあのウスノロボケナスなんぞにみすみす果実を譲ってやるものかと最期の力を振り絞り船内放送でこう告げる、「船員諸君に告げる、ただいま副船長と保安部が結託しかの果樹園を不当に独占せしめんとす、これに抵抗する意思のあるものは直ちに果樹園に向かい、くだんの果実を己がものとせよ。楽園を自らの手で取り戻すのだ、宇宙の全てがそこに」。
 くだんの木から放たれる悪魔的成分が既に空調システムを通じ船内すべてに影響を与えていたか、または楽園から追放され極度の緊張状態になっていたか、はたまた隔離室にいるかの果樹園職員の宇宙的脳波が船員たちに影響を及ぼしたかは定かではない、とにもかくにも船員一同どいつもこいつも気が立ちささくれ容貌峭刻通り過ぎ最早獣と大差なくめいめい遠吠え発狂せんとしていたから、この船長の最期の言葉は彼らすべてを果樹園へと奔らせた。出入口で武装した保安部員たちと押し合いへし合い、副船長は「近づくものは無条件で射殺する」なんて言ったものだからもうどちらも引っ込みがつかなくなってしまう。船員たちのその余りの形相に恐れを成した保安部員の、いや船員たちの誰かが奪い取ったそれなのか、ぱんっ、ぱんぱんっ。撃たれた船員は目をかッと見開いたのち、ごふりと血を吐いて斃れる。もうどうにも止まらない。船員たちは殴るわ蹴るわ引っかく齧るで保安部員たちはめいめいひどい有様、副船長は息も絶え絶えのち絶えた。果樹園の扉がついに開く。船員たちが我先にとのめり込み目についた果実を手当たり次第にもぎり齧る喰らう。実をとれなかったものは枝を幹を葉を根を土を齧らんとする。そしてくだんの木、くだんの果実。それはたわわとその実を実らせ船員たちを待っている。一口齧れば全能の光が脳へ染みわたる。ややっこいつはべらぼうだ、おいまて俺にも食わせろよ、まあそう焦るなこんなに実がなっているんだほれ、おうすまねぇや、ややっ、な、だろう? こいつはべらぼうだ頭の中で星がぐるぐる、なんでぇお前の頭ン中まで見えるぜこりゃ、あれほんとだこいつはすげぇや、見ろあの星々の巡り、知性、実存、あーっなるほどこいつァ原初の光、あッあッ、これが宇宙の。
 その船は中央司令部と連絡を途絶させて久しく、また中央司令部も幾十世紀の果てに散り散り別れたから、今や数ある辺境調査船のひとつたるその船が如何なる運命を辿ったかを覚えているものは誰もいない。そしてその船はいま宇宙の虚無に浮かび進み続けている。そのなかには楽園がある。楽園でその木が果実を実らせている。

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