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【連載小説】左手よりも短い右手 #3

 丘の上から見下ろすと、電線が交錯する街並みが一望できた。不器用な蜘蛛の作った巣のように、道は好き勝手に伸びていて、地図アプリを眺めていても、迷いそうになった。
 踏切と、電車の音がする。それ以外はとても静かな街。兄の暮らしたアパートは丘の裾にあるチャコールグレーの二階建てだった。
 扉を開くと廊下があり、奥には六畳間が一つあった。ちゃぶ台に座布団がひとつ。壁際に小さなテレビがあり、脇にルーターが立ててある。窓際には折り畳み机があって、本と書類が雑多に置かれ、隅には綺麗な状態のタブレットがあった。本棚は別に小さなカラーボックスがある。音楽雑誌が差し込まれていた。渋いモノクロ表紙の、ジャズの雑誌だった。
 これが月曜日に僕の見た景色だ。兄と連絡がつかなくなってから、2週間が経っていた。

 2週間前、ぼくは兄の姿を夢の中で見た。「戻れない」というそのときの言葉が、不穏な機会音声で普通を知らせる電話を前に慌てふためく母を見て、嫌らしい現実味を帯び始めた。母は警察に連絡をし、捜索願も提出された。一頻り、家の中が賑わって、一周回った。書き置きもないし犯行声明もない。騒いでもどうにもならなかった。
 10日経過するまでに、たくさんの悲嘆の声を聞いた。僕に見えない、夜のうちに、嘆きの言葉が震え混じりに取り交わされていた。
 荒げた声の残響を感じながら、僕は自室で左手を見つめた。その腕に対する違和感には気づいていた。あのときかざされた左腕と、今僕に備わっているそれとは、同じとしか思えなかった。
 僕の右手の方が短くい。手のひらを重ねて力を入れると、バランスが崩れる。僕の体は少しだけ左手に押される形になる。
「いいから戻ってこいよ」
 元に戻したかった。そうすればこの動乱はおさまる。僕らのかかえるストレスはなくすことができる。そう信じて、なれない祈りを並べ立てた。
 左手には当然口がない。勝手に動くということもない。それは兄の腕だったけれど、兄の心はこもっていない。僕の血管や神経が指の先まで通っている。形だけが兄のものだ。空っぽの存在だった
 11日目の朝に、ひとつの郵便物が届いた。送り主の名前は書かれてなかったけれど、見慣れた筆跡だった。
「頑張って生きます」
 短いメモとともに、鍵がひとつ入っていた。それが決定打だった。家の中は急に静かになった。騒いでも無駄であるということが確定すると、諦めを濃縮したような空気が家に垂れ込めた。
 賃貸契約の名義人だった父は、兄のアパートの偵察を僕に頼んだ。僕の通っている高校から兄のアパートまでは比較的近く、電車賃さえもらえればわけもないことだった。
 踏み入れた兄の部屋は、やや本が多いことを除けば、必要最低限のものしかないように思えた。写真付きで父に報告すると、父は1週間分の電車賃を僕に渡した。兄の荷物を片付けてほしいという話だ。契約を解除したいという話であり、僕は素直に応じることにした。
 
 何もない部屋というのは、実家の兄の部屋も似たようなものだった。兄がジャズを好きだとは知らなかった。実家でその手の音楽は聴かなかったので、イヤホンで聴いていたか、あるいは大学生になってから好きになったのかもしれない。
 一人暮らしのために家を出た兄に、僕は憧れていた。両親との仲が悪いとかではなく、知らない場所にいることが羨ましかった。そのことが、兄の荷物を前にして改めて思い起こされた。
 火曜日に、書籍や書類の整理に手をかけた。いちばんやっかいそうに見えたからだ。夕方に到着して、帰宅ラッシュを過ぎてしまったので、荷物は持ち帰らずに満員電車に乗った。水曜日に、修学旅行に持って行ったスーツケースに本類を詰め込んだ。ゴミ捨てのカレンダーを見ると、週末に縛って出せば処理できたようだけれど、なるべく全て持ち帰りたかった。帰宅すると兄の部屋に直行した。水色の土星のカーペットの上に、経済学部の書籍を並べた。ほとんど汚れのない経済白書が土星の輪を押し潰していた。
 木曜日には台所周りを整理した。生ゴミは幸いなかった。兄の食器には見覚えのあるものが多くかった。いつのまにか視界から家からいなくなっていたものたちだ。それが兄のものであったという認識がどうしてか薄くなっていた。ひとつひとつを、クッション材で丸めてバッグにつめた。プラスチックの食器は安物だったので、申し訳ないけれど捨てて、身軽にした。
 兄は自炊をしていたのだろうか。帰りの電車で通勤客の匂いに閉口しながら、思い巡らせた。実家ではその姿をみなかった。出て行く前になって確かカレーを作っていた。あまりにも小さな記憶で、すっかり僕は忘れていた。大きすぎるジャガイモを口の中で転がして、熱が冷めるのを待っていた。それくらいしか覚えていない。もっと何かあっただろうかと考えているうちに最寄駅についてしまった。夏の名残をかき消すような、肌寒い風が吹いていた。
 金曜日に、早く帰ろうとする僕を先生が呼び止めた。志望校の話を少々だ。法学部を志望していることは伝えてあった。大学の話をする先生は懐かしげな表情を浮かべていて、話したかったのだろうなと思う。実感のある言葉を聞くことは、好きなことだった。飾られていても、嘘ではない。彩られた記憶は、その人にとっての真実だ。人の話をきくことが僕は好きなのだった。
 だから、兄と話せなくなってしまったことが、無性に寂しいのかもしれない。でんしゃに揺られながら、そんなことを考えた。
 父のややむりやりなお願いに、逆らわなかったのは、普段と違う景色が見られると思ったからだ。果たしてそれは叶った。県境の川を超えると、空気も景色も異なっていた。僕の知らない社会がすぐそばにある。たとえ空気の質が悪くても、それとは別の種類の質を求めて、僕は息を吸い、咳き込みながら満足していた。
 金曜日の夕方に、僕は衣服に着手した。圧縮パックにむりやり詰め込んで平らにして、バッグに入れて行った。布団はどうしても大きいので、土曜日にどうにかする予定だった。清掃用具や洗濯用品をまとめると、あとにはテーブルやクローゼットが残った。父や母と話し合って、それらの大きなものは粗大ゴミとして出したいということにしていた。粗大ゴミを捨てられる日が土曜日であり、都合が良かった。
 荷物をまとめて、扉を開いた。薄暗い通路に出ようとして、気配を感じて立ち止まった。入り口の前でひとりの女性がいた。
 いろんな考えが頭の中を巡った。どうしてか、まず誤魔化し方を考えようとした。自分は悪い人じゃないと言おうとして、弟だと言い張ろうとした。嘘ではないのだから、とまで考えたところで、別の気づきが焦りを止めた。
 その人は私服姿だった。僕の見慣れない姿だったけれど、切れ長の瞳には見覚えがあった。顔をよく見れば、知っている人とわかった。
「久しぶり、大石くん」
 彼女は僕の苗字を呼んだ。
「藤堂さん」
 藤堂衣央というのが彼女の名前だ。音楽室の最前列でクラリネットを吹くその姿をこの夏まで見かけていた。僕と同学年の彼女は、同じくこの夏に、吹奏楽部を引退していた。

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