【連載小説】左手よりも短い右手 #1
二つ年上の兄がいる。兄貴と呼ぶ機会を逸してしまい、お兄ちゃんと呼ぶ程の親しみも薄れて、今では僕は彼を「兄」とだけ呼んでいる。
兄と話さなくなった理由は、はっきりとは思い出せない。僕から嫌いになったわけでも、兄から嫌われたわけでもないと思う。嫌いに繋がるエピソードは無かった。僕らは同じ屋根の下で平和に暮らしていた。漠然とした連帯感がかつてはあったような気がするけれど、それはきっと薄い紙のようなもので、無碍に扱っているうちに千切れてしまい、もとには戻らなかった。
兄と同じ高校に入学した当初から、吹奏楽部の朝練習を理由に、僕は朝早く家を出ることにしていた。兄と一緒に歩きたくなかった。繰り返すようだけれど、嫌ってはいなかった。それは僕の、弟としての道義的な問題だ。僕と兄は別の人であるということを大切にしたかった。その間隔を無闇に埋めるのは反則だと思っていた。
僕が高校二年生になると、卒業した兄は都内の大学に通うことになり、県境の街で一人暮らしをしていた。
兄と会わない生活には、一ヶ月もしないうちに慣れてしまった。兄のことを一番気にしていたのは母親だった。定期的に電話をして、少し話せればそれだけで嬉しそうな顔をした。それから一年経つと、母はメールでの連絡に切り替えていた。受信したときに見せる微笑だけは変わらなかった。
それと比べると、僕は薄情すぎるのかもしれない。この家で暮らしていたときにはまだすれ違っていた姿が、完全に見えなくなると、兄についての記憶は簡単に薄れていった。僕から連絡を取ることはない。話題だってない。それを悲しいと思う気持ちも持ち合わせていなかった。
だから、枕元に立つその姿が兄だとわかるには時間がかかった。