【連載小説】左手よりも短い右手 #2
カーテンを閉め切らないのが僕の癖だった。暗すぎると怖いから、いつも数センチ開いておく。隣家のモクレンの枝振りが見えるくらいがちょうどいい。
その隙間から、月明かりが差して、枕元の人を照らしている。毛布を退いて、腰に痛みを感じる程に振り返って、ようやくその人が兄だとわかった。
「どうかした? というか、いつ戻ったの」
驚いたことをごまかしながら、ぼやけた視界で眼鏡を探した。布団の外にも手を伸ばして、突っ立っている足に近づくと、冷えた氷の感じがあった。僕の血の気が一気に引いた。
兄の体は青白く発光していた。窓から差す月明かりとは別種類の、淡い明るさだ。明るいのに、メガネ越しでよりクリアになったというのに、その輪郭は不確かだった。
「何か起きたの?」
兄がこの家にいないことは、寝惚けた頭でもとっくに理解していた。兄には僕の言葉を否定してほしかった。肯定されたら、笑い飛ばしたかった。結局はそのどちらでもなかった。
言葉でのやりとりはなかった。兄には喋るつもりはないようだった。開いた口の奥には暗闇が広がっていて、言葉を求めて見つめていると、わけもなく裏寂しさが募った。
兄は死んだのだろうか。思い浮かんだ問いかけを口にするのははばかられた。お前は死んだのかと問われて、気持ちの良い人はいないだろう。たとえ相手が離れて暮らしていた者であっても、大して仲が良いとは言えなくても、兄は兄であり、無闇に傷つけたくはなかった。
驚きも旬を過ぎると、僕は落ち着いて兄と向かい合った。立ち上がるほどの元気はなかったので、布団の上であぐらをかいたまま、兄を見上げていた。
兄の視線は僕を通り越して、部屋の入り口だ。廊下を隔てて反対側に兄の名前をした札がかかっている。この一年で数回しか開かれたことがない、宿主のいない部屋だ。
「もう戻れそうにないんだけどさ」
ようやく聞こえた兄の声は、古いラジオの流すAMのような篭り方をしていた。ぼやけた身体とぼやけた音。今の兄にいくら手を伸ばしても、きっと触れない気がする。
「やめてくれよ、そんな話」
考えるよりも先に、口をついて出てきた。言わないと後悔すると、少ししてからじっかんが湧いてきた。心臓が高鳴り出した僕とは裏腹に、兄は涼しげな顔をしていた。
「こいつがあるとダメみたいだから、持っててほしいんだ」
要領を得ないまま、兄の目は初めて僕を見つめた。思いのほか柔らかな顔をしていて、面食らってしまった。少なくとも、悲しげには見えなかった。
「何を?」
理解の及ばない状況だとしても、兄の言葉が冗談とは思えなかった。話せるうちに話しておきたかった。
兄は僕の頭上に手をかざした。左手だった。指の先まで妙な後光が差している。気に食わない。まるで人ではない何かになってしまったかのようだ。兄はもとより兄でしかない。それ以外の誰にもなってほしくなかった。
「これ」
「……どれ?」
兄の左手に向けて、僕は手を伸ばした。間のひんやりとした空気には何もない。独特な動作が、過去の記憶と結びつく、などということもない。兄と二人で最後に遊んだのはいつ頃だっただろう。ろくなことはしていなかったと思う。手を触れ合わせるような真似にも覚えがない。
もう少し思い出があれば、かける言葉も見つかったかもしれない。そう思うと、口惜しかった。悲しくなれない自分が悲しかった。
「じゃあな」
篭った兄の声がする。返事をしようと思った。僕が残すべき言葉を、残り少ない時間の中で見つけようとした。でも、大したものは残されていなかった。
「なんというかその、お元気で」
僕が絞り出したささやかな励ましに、兄は初めて口元を緩めてくれた。
兄の姿の、コントラストが変わっていく。透けたものはより透けて、白が増幅して陰を消していった。
本当なんだ。直感した。耳だけで捉えていた「戻れない」の文字が、頭の端で楔になった。
痛みを感じた。それは膨らんで、頭の内側を満たしていった。暗闇が視界を染めていく。見えているとは言えない。もう兄はいなかった。月明かりも、何も見えなかった。
この夜中に起こったことは、夢なのかもしれない。この後に起こった出来事に、もっともらしい理由をつけたくて、想像力を働かせた。いかに荒唐無稽でも、理由になっていれば折り合いがつけられる。実にありそうな話じゃないか。
それでも、ただの夢とは言い切れない事情が、同じようにこの夢の後から始まった。
翌朝起きると、僕の右手は左手よりも短くなっていた。中指の第一関節分。目一杯腕を伸ばさなければ気づかないほどの、小さな変化が起きていた。
長い方がおそらく兄の手だ。どうやってかは知らないが、兄は僕に自分の左手を授けたのだった。