第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (十六)
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<十六>
まぁ確かに、と咲保は硬い音を響かせて争う孔雀明王と玄武を、後方の離れた位置から眺めて思う。みぃは眠くなったらしく、あくびをしながら足元で横たわっている。抱き上げようとしたが、臭いで嫌がられた。鯉は諦めたのか、ぐったりとして動かない。心がへし折れたなら、重畳だ。
それにしても、この装備は優秀だ。見た目はなんだが、これだけ近くで戦っているモノの側にいても、辛くも苦しくもならない。めまいすらない。何も損なわれず、安心していられる。こんな経験は初めてだ。しかも、どちらかがぼろぼろになるのを見て、辛くなるということもない。こんな機会は滅多にないと、咲保は興味津々でモノたちの戦いを見物している。
問答無用でいきなり斬りつけられた玄武だが、『場』であるから大丈夫だろうと思ってはいたが、本来の姿に戻ることで明王の剣を甲羅で跳ね返した。流石、丈夫なものである。その隙に蛇が前に伸びて孔雀の首目掛けて襲いかかるが、そこは毒蛇を喰らうとされるだけあって慣れたもので、容易く躱し、逆にやり返そうと嘴をかちかちと音をさせた。蛇の口からは、時折、何かが飛んでくるが、それも豪奢な羽根で全て跳ね返している。逆に、倶縁果や吉祥果が投げ返された。
それに対抗して、今度は亀の口から水の縄が飛び出て孔雀を絡め取ろうとするが、菩薩が剣を振るい切断する。取って返し、今度は亀の首を狙うが、すぐに首を引っ込めて空振りとなる。何度か同じことを繰り返し、今は甲羅を割ろうと、懸命になっているようだ。割れたところですぐに再生されるのだが、そういうことはあまり考えないらしい。
一見、無意味な戦いだが、別に勝つ必要はない。勝てはしなくても、負けはしない。
咲保の目的は、はなから時間稼ぎだ。この間に、桐眞が逃げ出すのを待っている。その算段は、浜路がつけてくれている。相手はわからないままだが、それは考えない。報復の程度は、桐眞次第だ。豊玉毘賣命からは、やりすぎるな、と言われはしたものの、『場』であるから消滅はしないだろう程度の配慮で充分だろう。おそらく、桐眞は気づけばすぐに降臨を願うだろうし、そうすれば、力で捩じ伏せられるはずだ。暁葉が言うには、『場』であっても、神とモノでは力の差は明確だそうだ。あとは合流して、一緒に帰って完了。帰り道は、桐眞の猫が案内してくれる手筈となっている。それまで、あと、もう少し。
(結局、私も、少しは役に立つところを見せたかったんでしょうね……)
おまえなんか、いなくなっちまえ――!!
幼い頃、兄に投げつけられた一言は、咲保を殺しかけただけでなく、今でも胸に刺さっている。成長するに従ってだいぶ小さくはなったものの、棘の痛みを残している。普段は忘れているが、たまに思い出させるように細い痛みを与えてくる。それを否定し、証明するための機会がたまたま巡ってきたのも、ここにいるきっかけの一つなのは間違いない。
私はいなくてもいい、取るに足らない存在ではない――。
本人の前で、そう証明したかった。とはいえ、存在を認めてほしい訳でもない。もっと単純な感情だ。
――そら、みたことか!
そんな感じだ。侮っていた者に救われる事で、一度、思い知らせてやりたい――そんな意地悪な気持ちだ。
もちろん、心配はしているし、戻ってきて欲しい気持ちも本当だ。その時、十歳にもならない兄の癇癪から、ついて出た言葉だとわかっている。兄が、その時のことを今も覚えているかどうかもわからないが、死にかけさえしなければ、単なる兄弟喧嘩に収まる範疇だ。咲保にしても、大人気ないことだとわかっている。それでも、他人が聞けば一笑に付すことでも、気持ちにひと区切りをつけるために、必要なことだ。
(それにしても……)
水の縄は玄武のものだった。つまり、別のモノの『場』にいながら、ひょっとすると、もう一つの別の『場』をも経由して、桐眞を攫ったことになる。
(そんなことできるのかしら?)
別のモノの『場』にいるモノは力が半減し、敵対行動はできなくなる。その原則はあるが、例えば、どういう関係かはわからないが、『場』の主から全幅の信頼を得ている場合は、その制限は無くなるどころか、力の底上げさえ可能なのかもしれないと思う。『場』の主が神の如くという位置付けならば、それも有り得ない話ではない。現に今、目の前で、格上のはずの孔雀明王を手こずらせている。二つの『場』が重なっていた謎もあって、わからないことだらけだ。
(はっきりした答えがわからないというのも、なかなか気持ちの悪いものね)
しかし、モノが関係している以上、全てを解明するのは無理だろう。わからなくても、そこは割り切っていくしかない。今は桐眞を連れ帰ることに集中すべきだろう。
(まだかしら……?)
がきん、ごきん、と音が続く。最初はおっかなびっくりだった光景も次第に慣れて、そろそろ飽きてきた。何を手間取っているのだろうと明王の持つ柑橘の爽やかな匂いを深く吸い、気を紛らわす。と、坂道を駆け下ってくる人影が見えた。
(来た! えっ?)
桐眞は風のように坂を駆け降りてくると、勢いをつけて常人にはあり得ない高さまで飛び上がり、玄武と孔雀明王の間に着地した。そして、気がつけば、蛇の頭が地面に落ちて塵になっていた。咲保には、桐眞がどう動いたか、まったく見えなかった。ほんの瞬きをする間のことだ。しかし、そんなことよりも――。
「双方退け! この場は、大己貴命の名にて預からせてもらう!」
朗々とした桐眞の声が響き渡った。咲保は眉を顰めた。
「咲保、もういいぞ。孔雀明王には帰ってもらえ」
改めて名指しで言われる。が、咲保は素直に従う気にはなれなかった。それよりも、先に言うことがあるのではないか?
玄武も向かってくる様子はないものの、こちらの動きを気にしている気配がある。桐眞が牽制しているが、どうするつもりか読めない。
「咲保」
もう一度呼ばれた。が、桐眞が何を考えているのか、理解し難い。
「いやです」
咲保ははっきりと答えた。そして、気になっていることを質問した。
「お兄さま、その後ろにいるモノはなんですの。女の」
兄の後を、黒い打ち掛け姿の女が滑るような足取りで追いかけてくるのが見えた。今は、玄武の後ろに隠れるようにして、こちらを見ている。
見た目だけで言えば、咲保よりも少し年上の兄と同年代といった感じで、身につけているものからも、一時代前の武家のお姫さま風だ。そして、明らかに人外の美しい容姿。これが元凶か、とすぐに判断した。小石の恋文を送ってきた相手だ。
(ああ、これ、だめなやつだわ)
一目でわかった。どこがどうとは言えないが、経験からくる見識だ。本能的な嫌悪感が刺激される。これは人を誑かす系統のモノだ。ぐい、と鯉につながる縄を引いた。
「咲保、これ以上争う必要はない。大丈夫だ。退け」
桐眞が咎める声で言った。女を振り返り確認もするが、怒っているようには見えない。中立の立場のような物言いをしているが、女寄りに見える。
(ひょっとして、もう懐柔された?)
だとすれば、最悪だ。男女間の情まで絡めば、難儀さを増す。人相手でも大概なのに、モノが相手ならば、より厄介だ。
「いいえ、退けません。それとも、お兄さまはここに残るおつもりですか? 家も将来も捨ててモノになるおつもりですか」
「なんでそうなる!? そんなつもりはない! ただ、穏便にことの始末をつけたいだけだ!」
「穏便? 今更?」
鼻で笑ってしまう。
「拐かされた本人が、穏便を願いますか」
わかっているはずの桐眞でさえこれだ。男というのは、こうも見目良き女に絆されやすいものか、と失望もする。
「それを聞けば、お母さまがまた泣かれますわね。お倒れになったのに、追い討ちをかけるような真似をなさるなんて……見損ないましたわ」
「倒れた? お母さまが?」
「ええ。幸い悪いところは見当たりませんでしたけれど、心労で。あの後、大変でしたのよ。お父さまにはすぐに連絡がつかない中、瑞波は泣き続けだし、磐雄は梟師さんに助けを求めようとするし……止めましたけれど。成人した嫡男が攫われたなんて醜聞、他の方の耳に入ったら、何を言われるか……少なくとも、うちの信用はガタ落ちですわ」
「それは……すまない……だが、」
「だが、なんですの? お父さまも家の格を捨てても、お兄さまを助けるために他家の助力を願うとおっしゃっていました。だから、それまでに二日間だけ猶予をいただきましたの」
「二日?」
狼狽える桐眞の表情に、やはりわかっていなかったか、と咲保は溜息をついた。
「お兄さまが攫われて私がここに来るまでに、一日経っております。私が来てからも、すでに半日はすぎているかと」
咲保の腹時計で判断すれば、そのくらいだ。
「そんなに!?」
「ここに来てから何か口にされました?」
「いや、何も食べてはいないし、飲んでもいない」
「それにしては、平気そうですわね。空腹は感じませんの?」
「そういえば……」
(こんなに早く取り込まれるものなの……?)
兄は、すでにモノの支配下に置かれている――咲保は玄武を見て、次に足元の鯉を見下ろした。それとも、あの女か――黒打掛の女のどちらかが、兄が気付かないうちに何かをしたのだろうと目星をつける。兄にもまるおの加護がついているが、それだけでは防げなかったのだろう。だが、それだけだろうか?
「やはり、放ってはおけませんわね」
人に害をなした時点で、討伐対象だ。咲保がどう動くか見定めようとする皆の視線を感じる。
「ヌシさま……」
縋るような声で女が言った。甘ったるい媚を含んだ、本当に神経に触る声だ。その声に反応したのか、鯉が尾鰭をばたばたと動かした。
(声に何か仕掛けがあるのかしら……?)
だとしても、咲保は影響を受けないようだ。それにしても、『ヌシさま』呼びとは、まるで遊女のようだ。黒装束に違和感があるが、やはり、北方の妖である雪女の性質があるのかもしれない。雪女の印象は、妙齢の女性だったり、子連れの女だったり、老婆だったりと語られる土地ごとに変わるが、噺に残る被害者は独り者の男性ばかりだ。
(どうしようかしら……)
桐眞を無理に連れ帰るにしても、咲保ひとりでは無理だ。力で抵抗されては、なす術がない。説得しようにも、現時点では無理だろう。兄も所詮は男だ。女の、しかも妹の意見など軽く見ている。無意識のうちに、そういう考えが染み付いている。その上でモノの影響を受けていれば、咲保の言葉など聞く耳を持たないだろう。結局、父からの救援を待つしかないか――そう結論づけた。しかし、それでは、咲保が来た意味はなかったことになる。それも腹立たしい。
「それで、穏便にとおっしゃるお兄さまは、何をなさりたいの?」
「話し合いでおさめたい」
「話し合い? 何を話すことがありまして」
「彼女たちは、輝陽のお祖父さまに預けられていた時に、俺が通っていた神社にいたモノたちだ。俺の祝詞をまた聞きたかったらしい。だから、もう一度、聞かせてやろうかと思う。それだけだ」
「祀るわけでもないのに、祝詞をあげる意味などございませんでしょう」
「わかっている。だが、それで満足するならいいだろう」
「いいえ、ちっともわかってらっしゃらないわ!」
「わからないのは、そっちだろう!」
ああ、情けない、腹が立つ、と咲保は胸の内で喚いた。
モノの影響を受けたところで、取り憑かれていない限りは傀儡となるわけではない。桐眞は神を降臨できているのだから、それはない。飲み食いもしていなければ、精神も汚染はされていない。影響を受けているのは、表層のほんの軽微なものだろう。であれば、今の主張は、モノの誘導はあったとしても、桐眞自身の意思だ。
(なんてこと!)
まさか、桐眞がここまでモノをわかっていないとは、予想外すぎる。自分の異常さに気づきもしないのだから、呆れる。すっかり騙された気分だ。咲保の堪忍袋の緒も、ぷつりと切れる。
(こんな見え透いた手に引っかかるなんて、馬鹿じゃないのかしら!?)
相手はモノだ。特に野良ともなれば、己の欲望を満たすためにならなんでもする。たかが祝詞をあげるだけというが、一度で満足するわけがない。一度、要求を呑めば、また次もその次もと次第に要求を上げ、引き留めては際限なく付き纏うだろう。その行く末は決まっている。
「お兄さまは、それでよろしいのね」
最後通告で尋ねれば、桐眞は迷いながらも頷いた。「わかりました」、と咲保も了承した。残念だ。なんとかしたくとも、これは咲保の手には余る。
(ああ、腹が立つ!)
これでは、何のためにここまで来たのかわからない。まるで咲保の我儘であるかのように言われても迎えに来たというのに、他ならぬ兄に台無しにされるとは思ってもみなかった。お膳立てしてくれたまるおや皆の苦労を、何だと思っているのだろう!?
「では、こちらを受け取ってくださいまし。あと、これも」
咲保は腰に結んだ風呂敷を解くと腰に下げた竹筒を添えて、桐眞に投げて渡した。少し乱暴になったが、かまわない。
「なんだ?」
「お母さまがお兄さまのために握った、おにぎりとお茶ですわ。お腹が空いたらどうぞ」
そんな時が来れば――暗に仄めかしたところで、兄は虚をつかれたような表情を浮かべた。自分で選んだくせに、なぜそんな顔ができるのか不思議だ。なぜ、咲保に迎えに来なければいけなかったのか、まったくわかっていないし考えようともしない。胸がむかついてしょうがない。
「ああ、ありがとう。おまえは?」
「私は、先に一人で帰ります。蘇芳はいますか? 出口に案内してちょうだい」
にゃあん、と子猫が桐眞の影から出てきた。が、桐眞と見比べ迷う仕草をして、なかなか咲保の方へやってこなかった。
待て、と、玄武が初めて声を上げた。
「白姫をこちらに返してくれ」