TinPan Alley FC
ティンパン・アレーというと、はっぴいえんどとYMOのあいだに細野晴臣さんが組んでいたバンド……というのが現在の認識ではないかと思います。そしておそらく、他人のバックバンドを務めるスタジオミュージシャン的な意識の集合体、という印象ではないでしょうか。あやふやかもしれませんので一応おさらいしておきましょう。
まず1972年10月にラストアルバム『HAPPY END』の録音をロサンゼルスで終え、12月31日にはっぴいえんどが解散します(1973年9月に解散コンサートをやっていますが、それは実際はライブのための再結成です)。その元はっぴいえんどの細野晴臣と鈴木茂が次に組んだバンドがキャラメル・ママでした。他のメンバーはフォー・ジョー・ハーフというバンドにいた林立夫と松任谷正隆で、はっぴいえんどとフォー・ジョー・ハーフの半分ずつが合体したわけです。細野ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』(1973年2~3月録音)の録音のために集まったメンバーが母体となりました。
なお、メンバーの集まった順番は、はっぴいえんど解散が決まってショックをうけた鈴木茂が昔のバンド仲間の林立夫と会ってまた一緒にやろうという話になり、今度はキーボードを入れたいねと松任谷正隆を誘い、小原礼と細野晴臣のどっちを誘うか悩んでるうちに『HOSONO HOUSE』の録音に誘われたので、そのまま細野と一緒にキャラメル・ママになった、という流れです。細野さんの存在が強すぎて細野さんのバンド扱いになりがちですが、当初は鈴木&林のバンドだったのでした。
当時の日本においてかなりの演奏力を持ったミュージシャンが集まっているこのバンドの欠点は、ボーカルが弱いことでした。そこで得意だったインストゥルメンタルを中心に、つまり演奏を中心にしばらく活動していくこととなります。とくにこれまでと違ったのは歌謡曲のバック演奏でした。これは意識的に歌謡曲の内部に入り込んでいくものでしたが、結果として内部には入れなかった、ちょっとやってみた程度だった、と後年振り返っています。それは「歌謡曲の世界はいい演奏ができればいいというものではない」世界だった、という意味です。
1973年8月頃にキャラメル・ママのアルバム録音の予定があったものの、延期し、雪村いづみ『スーパー・ジェネレイション』の仕事を最後に、そのまま年末頃に解散します。『ヤングギター』1974年1月号に小さな記事があります。
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2001年以降に雑誌等に書いた記事を全部ここで読めるようにする予定です(インタビューは相手の許可が必要なので後回し)。テキストを発掘次第追…
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