家族の言葉。
今日もわたしたちのまわりには
ひどい言葉も、やさしくみえる言葉も
ぶっきらぼうだけど、沁みる言葉もあって。
それでも言葉のまわりで悲しいことは起こり
続けている。
そこに触れた途端に心に火がついたり。
その火が消えないまま、くすぶり続けている
熾火みたいな言葉があるんだと思う。
だれにも。
わたしは、誰かが言った言葉をどこかで
それは心なのか頭なのかわからないけど。
もう一度咀嚼してからじゃないと、書いたり
言ったりわりとできないので。
コスパは悪い。
その言葉はずっと心のどこかに留め置かれて
しまう、とてもめんどくさいシステムのまま
言語を処理する癖がなおらない。
この間もそうだった。
車の中で弟が言った。
母の面会に行く途中の車中だった。
週末にしか母に会えない弟のために色々と
一週間の報告をわたしがしていた時だった。
車内に響くポッドキャストに耳を傾けて
いたからその時、どういう文脈か忘れたけど。
「がんばって」ってあまり言わない方が
いいよって、突然彼が言った。
それはわたしも同意していた。
「がんばって」はわたしは言ってない。
だからわたしは「リハビリ頑張ってるね」
って言うことはあるけどって言ったら。
それもさ「がんばる」っていう言葉を聞いたら
「がんばらなきゃいけない」と
おふくろが思うだろうから、あんましよくない。
みたいな話の流れになった。
その時わたしはちょっと違うなって思ったけど。
あいまいにそうだねって言ってスルーした。
でも夕方面会を終えて、家に帰りひとりで焼き
ビーフン作ってる時に、え? あれってさって
思い出して。
ちょっと昔みたいにむかむかまではいかない
けど、むかの「むっ」ぐらいには
なっていた。
これは夜中一人会議する案件かもしれないという
予感がした。
わたしはずっと家族のことについて、遠くから
ながめていたので。
未だにコミュニケーションがぎこちない。
弟とは気持ちが離れている時期が長かったので、
言葉の距離感も正直あまりわからない。
その場で言葉を返せばよかったのかもしれない
けれど、その時はさして気にもならなかった。
言葉って時差でやってくるから。
がんばれってがんばっているひとに言うのは
気持を逆なでするだけだと思う。
それはわかる。
わたしも言われたら嫌だから。
でも以前、仕事の現場で悩みながら納期を終えた時。
それはほめられた話ではない当たり前のことだ
けれど。
「○○さん、がんばってるよね助かったる」
って言われた時、まだ頑張りが足りないと
思っていたので、ああわたしはがんばって
いたのだとうれしかった。
鬱になっていることに気づかなかった時
わたしは主治医に「もうがんばらなくて
いいですからね。痛みもがまんしないで
ください」と言われて、頑張らなくていい
という言葉に気持ちが晴れた。
その延長線上にあって、書ける言葉も無意識
だったかもしれない。
リハビリ頑張ってここまでできるようになったと
いうことを、最初の最悪の状況を知っているわたしは
「がんばってできるようになってよかったね」って
言っていた。
母にそう言うと、「そうだね」、「頑張っていたん
だね」って母も畳みかけるように答えてくれていた。
だから弟に、頑張ってるねっていうことを言うだけで
「頑張らなければいけない気持を想い出す」のは
心臓にもよくないんだって言われて、夜中もやっとした。
がんばってるねは、よくね?
って思ったけど。
心臓を引き合いに出されるとだまるしかなかった。
深夜見ていたクドカンのドラマ『不適切にもほどがある』
じゃないけれど。
「話し合いましょう、たとえわかりあえなくても」
なんだよなって思った。
がんばるひとつとっても、ラリーを返すのが
めんどくさいわけじゃないんだけど。
若い時から話せばわかると思ったことがなかった
から、ずっと避けてきていた。
これは、世間一般がどうこうじゃなくて。
家族だけにはゆるされてる「言葉」みたいなものが
あってもいいのかもしれない。
それってもうかなりハードル高いけれど。
そういう「言葉」の積み重ねがよくわからないけど
「家族の言葉」をこしらえてゆくのかも
しれないと思った。