ほんとうは、まだ悲しみ方がわからない。
タイムラインから流れてくる言葉や映像や
音たちはいつも、わたしのまえに突然現れて
そのひとの輪郭を形作って去ってゆく。
その人が去ってからもわたしのなかには
輪郭が残る。
書くって呼吸だなって思うけれど。
その人の呼吸を近くで感じたことはないのに
その文体から呼吸が聞こえる。
そんなことを思い出しながらあぁ、わたしは
その人のことを悲しむ資格ってあるのかなって、
今ためらいながら書いている。
資格だなんて一番いやな言葉を使って
しまいたくなった。
今日は突然悲しみが、降ってきた。
憧れていたライターの方が旅立たれたことを
知った。
その方のnoteはいつもとちがって、奥様の言葉で
代筆されていた。
奥様の文章が、一行ずつ慈しみながら書かれて
いることがわかる素晴らしい文章だった。
悲しみという感情にまぶされていない、
やさしく淡々としていて、読者のわたしの
胸に沁みていった。
Twitterのタイムライン、わたしもご一緒している
リストに並ぶひとたちは宛先が誰と書かれて
いないのに、それが彼だとわかるほど、
名づけられない色に染まっていた。
わたしは相互フォローでもなかったけれど。
いつだったか、記事にスキを頂いた。
うれしかった。
御身体が大変な時に読んでくださったんだと
少し申し訳ない気持ちにもなった。
わたしは正直いうと、ライターやコピーライターの
noteを読むときとても緊張する。
ちゃんと痛いところをついてくるから。
じぶんの何処がダメなのかを必ず文章で
教えてくれる。
そして、教えてもらった後は、あれをしちゃ
いかんのだぞって自分に言い聞かせるように
書いてみたりした。
これを読んだときに、わたしの痛い所に
ちゃんと水が注がれたような気持になった。
うまく言えないけれど、ふみぐら社さんの
言葉にわたしは時々叱られている気持ちに
なっていた。
甘えだけれど、もしかしたら、ちゃんと叱って
ほしくて彼のnoteに会いに行っていたのかも
しれない。
やわらかさや、やさしさだけじゃないnoteに
飢えていた。
それだけ、「書く」ということに自信を
失っていたわたしにとって、彼の文章は
まるで教科書のようなところがあった。
眼差しがやさしい。
生きているものたちへの敬い。
息抜きさせてくれる文章でさえその
視点を学ばせてくれるところが好きだった。
だから、今日は書くために書いてはいけない。
遅れてきた生徒としてはそこは外せないのに、
もっと寝かせるべきだったかもしれないと
悔やんでいる。
でも、今日はなぜか久々にエッセイを他でも
ないnoteで書きたかった。
遠い場所からそのまぶしい文章に触れていた。
書くことを生業にしている方が、もうこの世には
いないということのじぶんの気持ちを形にならない
ままでいいからこっそりと記しておきたかった。
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊