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氷輪

その日は晴れた夜空に澄みきった大きな月が薄い光を放っていた。「月が綺麗だよ」とメッセージを送ったが、彼は「あとで見てみる」と言ってごろごろしていたらしい。彼が見た時には既に一面の雲に覆われて月は隠れていた。

虚構が現実を模倣するはずが、現実を生きている私達の方が虚構を模倣してしまうことがある。手垢のついた象徴を完全オリジナルな日常の中に勝手に見出して、時に陳腐なシナリオを演じてしまう。こうしてクリシェを再生産する。

彼が月を見なかったことなんて取るに足らない出来事だったのになあ。漱石を筆頭とする歴代の表現者たちに屈してしまった。紋切型の「彼氏らしさ」やロールプレイを少なからず期待していた私は未熟で凡庸だった。


私は浮き沈みが激しいのだが、調子がいい時はそんな人間の性質をかわいく思える。今は調子がいいんだと思う。恋心に囚われず自分を持っている感じがする。

愛は人間の弱点だ。俺は男だから女が欲しいこともあるさ。だが欲望が満たされれば他のことへ向かう。性欲は克服できんが、そいつを憎んでもいるのだ。精神を虜にするからだ。

『月と六ペンス』よりストリックランドの言葉

イギリスの作家モームがゴーギャンをモデルとして描いたストリックランドは狂わしいほどに質実剛健、描きたいものを表現する術を得るためなら生活を打ち捨てる人間である。とことん自分中心で他人の人生をめちゃくちゃにする。私が今まで出会ってきた素敵な人間たちは彼ほど身勝手ではないが、思想があって他人に介入させない自分の世界を持っていた。私はと言うと、恋をして精神を虜にされ自分の世界が骨抜きになった。賢さ、誠実さ、美しさ、総じて強さのある人間に惹かれるが、それは私に欠けていると思うからだ。ストリックランドのように陶冶に専心する強さを持ちたいものだ。


漢文では澄みきった月のことを氷輪あるいは氷鏡と表現することがあるらしい。なるほど晴れた夜空の澄んだ空気に浮かんだ月は凍ったように冷ややかな光をしている。

漢文語句辞典をぱらぱらと眺めるのは楽しい。私は「氵」のつく語を眺めるのが特に好きだ。たくさんの表現を吸収・体系化できる点で役に立つ。例えば「羞花閉月」は女性の容姿を表す語句で、あまりの美しさに花を恥じらわせ、月も恥じて隠れるほどである様子を指す。ここで美しいものという類似性グループ(女性、花、月)を並べて比較したり比喩を用いたりする方法を知り、同じ要領で「父親の恐ろしいことといえば雷は彼を避けて落ちるし、蛇も彼とは目を合わせない」みたいな表現を増産することができる。他にもいろいろと応用が効きそうな表現である。

ただし問題もある。漢文語句辞典で出会う先人の比喩は紋切型の表象、クリシェに他ならない。なにせ漢文頻出語句なのだから手垢ベタベタである。私はもう今後月を見て氷という比喩を使いたくない。時代を経て蓄積されてきた伝統が私達を豊かにし、同時に創造の苦しみに追いやっているのは皮肉である。


氷輪にはもう一つよく使われる意味がある。私はこの使い方がとても好きで、今の自分に必要なものの一つであると感じる。漢文語句辞典を持っている人はぜひ調べてみてほしい。

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