父と母に感謝という意味はわかるのだが本当にそれだけでいいのだろうか

あるYOUTUBERが無人島で文明から
乖離した状態で生活して最後帰れるという風になったとき

文明に感謝した
食べ物とか買えるモールってすごい
母に感謝の思いを持った

そんな感想を持った

よく父と母に生きているうちに孝行しなさいというのだが

それは何を持って孝行するということなのか
それそもそれで本当にいいのだろうか

一番本質的なことは何なのか
そんなことを考えてみた


食べさせてもらえた恩はあるのだが

父と母にいろいろな恩があるのだが
一体ただ食べさせてもらえたということだけが
恩では勿論ないのは確かだろう

もし食べるということだけなら
ベーシックインカムがあったら
そもそも父も母もいなくても
食べていけることになる

現代の文明はBIは不可能なものとは
なっていなくて夢物語でもない

政策の一つにもあげられるほどだし

それに人はものでいきているわけではないし
父と母はそれだけをしてくれたわけでもない

もちろん人によって環境は違うのだが
一般論としては父と母というものは
子供を愛して育てるものだ

その精神的に受けたもの私達は
また子供に伝えていくのだ

つまりここで伝わっているのは父と母を
媒介としただけで

根本は愛だったりもする


実は受けたのは愛だけでもない

愛というものはとても貴重で誰しも
それは重要だというのだが

しかし愛には

…自己愛
…溺愛

など種類もたくさんある

子供を愛するにしてもそれがただ
義務感からだったしする場合もある
またただかわいいからいうことを聞くから
という場合もあることだろう

そうした人の不十分さは
克服しがたいほどに歴史の中で
私達は受け継いできているもの
といってしまえばすむのだが

そうしたことゆえに愛というだけでは
実は不十分であり愛のかじ取りのような
ものが必要ではあるのだ

物事は実は相手がいないと成立しない
存在も相手がいないと存在しないもの

だから私達は本来的になるなら
その本来的な相手を見つけないと
いけないことになるが

それを見つける道が何なのか
それが重要になるのである

そのヒントになるのが価値である
だから父や母が教えてくれるものの
重要なものが価値である

父や母が大事だがそれより価値あるものもある

そこで問題となるのが
父と母だけに限定して考えると
根源的な価値ということを忘れてしまう

そもそも父と母も同じくおじいちゃんとおばあちゃんに
対して同じこと状態でありそれは繰り替えされて
きている

そこで愛などを通じた関係性だけをみると
受けた恩をという考えになるのだが

しかしながら過去の偉人の人たちなどの例を
みてみるとどうだろうか

人類の文明を作り上げて新しい扉を開いた
人たちは確かに父や母を蔑ろにしてはいないが
その次元でとどまっていたわけでもない

ある意味彼らは何百年たっても
多くの人に価値をなげかけて
それがゆえに人が常に前進してきている
それは事実だろう

彼らは価値の点では人類の父と母といってもいい
役割を部分的またはどこかの文化や歴史の時代の
中でしてきているのだろう

この価値の部分を見つめていかないと
本質はわからない

父や母
または日本国
またはこの時代

そういうものは過ぎ去るものだ

過ぎ去るものが全て価値がない
わけでもないが本質は価値の方である

その本質的な価値の方を確かに日々深めて
いかない限り

私達の人生はただ過ぎて死んでいくという
ことにもなるのだ

意味と価値を持てる人生になるため


人はいろいろなことに挑戦するのだが

その挑戦も本質的でないと
結果も本質的なものにならない
という価値観も持たないと
その挑戦での意味はなくなってもしまう

そういうことは余り主張されず
ただ夢や挑戦をすることだといっても
結果が伴わあいことだろう

深い人生の価値をどう持つのか
それを訪ねもとめることは
誰でも簡単にできることである

実は誰でも簡単にできることの中に
答えがあるのが過去の偉人たちの
回答でもあったのだ

目先の何かを解き放って
ないがしろにするということでなく

その中で一番重要なものは何なのか
それを考えるってことが
大事だということに

結局のところなるのだ

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