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#思い込みが変わったこと
認識の源泉について考えてみたら見えてきた世界
前回は認識における二つの大きな立場について述べたが
その背後では認識の前提というべきものが何であるのかそれについて触れていった
前回の記事
この記事では
それでは続きをやっていこう
何を中心としているのか勿論諸説はでてくるとは思うが
何を中心としてこの二つの考えが分かれているかというとそれは簡単にいうと人がすべて把握できるのかそれとも人以外のいわゆる神のような存在が関与して人の認識が成立し
認識によって想像も理性も限定されている件-不可知論的逃避、アプリオリを超えて
適当な言葉が思いつかないからたぶん一番合っていると思われている認識というものを私は使うのだが
認識をどう定義するかわからないがいわゆるこれだと認める意識ということである
なので認識は何か発想の最初の段階で働く作用であるある種出発点のようになっている前提を作り上げる際に必要な作用ということができる
この認識がいかに発生するのかということには
規則があるのは明らかなのだが
その規則の大まかな形し
無意識とか認識とか理性より先にあるもの
確かに現代文明では理性で認識できる範囲内でのみ
それを現実としているところもある
脳科学
AI
どれも人の精神について理性的に認識できる範囲での解釈にはなっていたり
もちろん誰しっている
AIが感情というものを自律的に持てないことは…
それらしいものは作り出せるがそれは所詮現在私達が認識しているこれが感情というものを緻密に再構築したものと言っていい
そもそも科学は前提である仮説の範囲内で
連鎖に取り込まれているのがゾンビじゃないのですか?
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私が学生の頃にみた景色は、
通勤電車に乗って毎日大人たちがどこかに通っていく。
私も同じく学校にいくために、
この連鎖をしていくことを日常としていた。
自分だけが何か変わったものだと
思いたいのではなくて、この連鎖の行きつく先が
なんだか不透明で、本当にこれが現実のすべてで
あっていいのかってそう思う気持ちが
生み出した幻影なのだと思う。
人々がゾンビに見えたのは
まあ霊感もあったので