認識の源泉について考えてみたら見えてきた世界
前回は認識における二つの大きな立場について述べたが
その背後では認識の前提というべきものが何であるのかそれについて触れていった
前回の記事
この記事では
こうして認識はこう成立するという考えに二つの大きな流れがあることがわかるのだが
実際のところそれは何を中心とした問題で分かれた考えでありどちらも正しいと思えるところがあるにもかかわらず矛盾もしくは対立しているのか
そこが重要だろう
それでは続きをやっていこう
何を中心としているのか
勿論諸説はでてくるとは思うが
何を中心としてこの二つの考えが分かれているかというとそれは簡単にいうと人がすべて把握できるのかそれとも人以外のいわゆる神のような存在が関与して人の認識が成立しているのか
つまり神の存在を肯定するか否定するか
実はその簡単なところで分かれている見方の違うともいえるところがある
デカルトは神の存在証明を我思うゆえにいいながらしたのだがしかしながら我思うという言葉だけをとると出発点が私になり神という私の上位的な何か超越存在はないということを前提にすることにもなる
方やカントは明確にイデアのようなアプリオリ的なものを提示しているために神の存在を肯定しているようなそして人がどうしても関与できないものがすでにあるということを認識の前提にする立場になりやすい
この二つの立場はつまり
神中心なのか
人中心なのか
出発点はどこにあるのかという解釈の違うということもできる
もっというと神は人が認識できるのか(デカルト)それとも不可知的にそもそもただ存在しているという事実しか知りえないのか(カント)との解釈の違うということもできる
そもそも二つの立場の境界になっているこれは何か
神という言い方がどうもなじまないのが日本文化かもしれないが
私が学んだアメリカで神という単語を出したところで抵抗はないしもしくは超越的なとかアプリオリ的なといったところで多くの人は神のことを想定するものだ
その文化的な違うについてはまた述べるとして
ここで神という単語を使わないでその意味を考えてみよう
この神という言葉を別の言葉でいうなら
認識が成立する際の何かということになる
世界で唯一人のみが思索ということをしていて文字を持っているとも言えるのでその思索の出発点の何かということになる
いわゆる原因的な存在ということになるのだが
それを人が主体的にするだけなのかそれとも示されたものを人が客観的にたどっていくのかそのどちらにするのかという思索の行動の違いによって行われた違いがこの二つの発想の方違いであり
興味深いところにこれは西洋文化の特徴なのだが
神ともイデアともアプリオリとも言えるそれを
想定してカントもデカルトも発想の根源を想定しているのである
まあ神と呼ぶと仰々しいが
ただ出発点というなら別になんとはないもので
その存在が何であるのかは逆にいうとこの思索の出発点だけを
問題にしているのであれば
何であっても関係はないのではあるが
しかしながらそこに無意味何かであるはずはなく
最終的には回り道をしたところで
それはソクラテスがいったように
イデアのような理想的なものに
落ち着いていくのは明らかなことだろうと思う
その意味でどちらもこの最終的な落ち着き先については
求めるにおいて違うはないがただどちらも
その落ち着き先が何であるのかは
具体的に説明はしきれていないのが
結局のところ問題にはなるのではある
私達はどうすればいいのか
最終的な目的地があることだけは
私達はわかっている
しかしながら私達はアプリオリ的なものの実相が
最終目的地であることは推測できるが
我思うゆえにしかそれを認識できない
私達であることも知っている
けれど時代とともに
人の存在とか文明の在り方とか
自然というものの意味とか
そういうものは明らかになってきてはいる
だからこの思索の原因についての旅もいつか
何か明らかにされる時がくるのも
期待してもいけないものではない
どちらが正しい正しくないという話では
その旅路の最終的なものは達成できないかと思う
どの道筋であっても結局は同じ道の上にあると
そう考えない限りこの問題の本質は見えてこない
そう思えてならない
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