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伊勢神宮にまつわる明治最大のスキャンダル「森有礼不敬事件」

今から132年前の2月12日は、明治政府で文部大臣を務めた森有礼(もりありのり)が東京の私邸で暴漢によって暗殺された日です。明治22年(1889年)のこの日は大日本帝国憲法が発布される記念日であり、式典への準備で森邸内が混雑していた機に乗じた犯行でした。
ただ、世間は被害者の森大臣の死には冷淡で、むしろ暗殺犯の男に同情する声がはるかに多かったようです。殺害の理由が「森が伊勢神宮を参拝した際、正殿に土足で上がり、御簾をステッキの先で持ち上げて覗き込むといった不敬行為をした」ことへの義憤による斬奸であったと喧伝され、これは忠神、忠義の行動だったと称賛されたからです。

森有礼(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)

しかしこの事件には謎が多く、今でも近代以降の伊勢神宮にまつわる最大のミステリーとなっています。これについて、国學院大学の中西正幸先生が「森有礼の神宮参拝をめぐりて」(神道研究 第6輯 昭和57年12月25日)という論文を発表されているので、それに基づいて考察してみます。

<新聞が伝えた森有礼の「不敬行為」>
明治21年8月1日、東京電報新聞に「某大臣が巡廻の途次、其地に過ぎられたる時の事なりとか、其人は随行者をも引具せず唯一人にて宗廟に詣られしが、如何思はれけん、突然拝殿の奥、一般に進入を禁じたる内庭の方にづかづかと踏入らるるにぞ、神官はあわてて走出て、其所は古より皇族とても立入らるるを許されざる地なれば留まり給えと遮りしを、「ソーカ」とばかり答えつつ、猶歩みを奥殿の階上に進め、打下したる玉簾をさも不作法に携え持てるステッキの先にてひらけ、正面に突き立ち、しばし神鏡の方を打ち守りて立ち去られし云う」という記事が掲載されました。(ここでは原文を改変しています。)
具体的にいつの出来事なのか明記がなく、森有礼や伊勢神宮という実名も挙げられていませんが、多くの読者は宗廟とは言うまでもなく伊勢神宮のことを指し、こうした行為をするのは西欧文明論者で近代化を過激に推し進めようとして有名だった森のことに違いないと信じたようです。暗殺犯もこの記事を妄信して痛憤激怒し、凶行に及んだのでした。

<伊勢神宮は不敬行為を否定した>
実はこの記事の掲載後、不審に思ったある読者が真偽を神宮司庁(伊勢神宮の政務をつかさどる部署)に対して照会しています。明治21年8月6日にそれへの回答があり、明治21年1月から今まで大臣の参拝はなかったこと、伊勢神宮には拝殿や玉簾などは設けていないこと、などを挙げて、記事の内容を否定しています。神宮司庁は東京電報社に対しても記事の取消しを求めました。
しかし、この回答はいかにもあいまいだし、こうした対応で終息しないのがゴシップの常です。森の不敬行為と決めつける噂はいっそう全国に広まってしまいました。

<実際はどうだったのか?>
森有礼は明治20年11月27日に三重県を訪れて、県会議事堂で教育に関する講演を行いました。その翌日、小学校の視察と伊勢神宮の参拝を行ったことも事実です。
慣例に従って、まず外宮から参拝しましたが、参拝したのは森大臣と川上視学官、石川三重県知事の3名で、外宮側では禰宜の尾寺 信、主典の亀田三衛が案内をしました。
外玉垣御門(とのたまがきごもん=現在は一般参拝者の事実上の拝殿となっています)前で尾寺禰宜は門の東側に退いて、磬折(けいせつ・立ったままで腰を深く折り曲げてする礼)して森大臣らの拝礼を促したものの、森大臣はためらわずに門内に入ろうとして亀田主典に制止されます。そこで森は2、3歩退いて、脱帽、礼拝して退下したのでした。
限られらた空間での小人数の出来事です。そこに居合わせた人は真実を知っているはずです。しかし、後日のそれぞれの証言が微妙に食い違っているのです。

外宮正宮をのぞむ(外周は「板垣」に囲まれている)

<尾寺禰宜の説明(伊勢神宮宮司への文書報告)>
森大臣が外宮を参拝した際、外玉垣御門下の敷布を靴で踏み、ステッキで御幌(みほろ)を掲げて御門内に入ろうとした。
その際、亀田主典が制止して、ここから中は皇族しか入れないと説明した。
森は随行していた三重県知事に対して「ここから中へは入れないのか」を確認。知事もそう説明したため、脱帽して礼拝し、すぐに帰路について、内宮には参拝しなかった。

<亀田主典の説明(関係者が亀田から聞いたと伝わる話)>
森大臣は泥酔していてよろよろだった。
外玉垣御門では御幌をステッキでまくりあげ、入ろうとしたので押しとどめたところ、森は非常に怒った様子で、帽子もとらず、一拝もせず、「(伊勢神宮とは)こんなものか。こんなものなら内宮には行かない。」と放言して退去した。

<文部省木場秘書官の発言(後日の座談会での発言)>
神官(尾寺禰宜)は外玉垣御門まで行くと、何も言わずに門の右に寄ってから、腰を折って前かがみになり何かを言った。「ここまでです。」と言ったのだろう。それで森大臣は、アッと言って2、3歩退き何かを質問した。「ここまでか。」と確かめたのだと思う。森さんはそこで直立して最敬礼し、退出した。
確かにステッキは持っていたが、門の御帳(御幌)が神聖なものなどとは毫も知らないのであるから、あるいはステッキが触れたかもしれない。しかし幌を上げて中をのぞくなどは絶対にない。
森さんは、神前を退いて人力車夫が待つ大鳥居に戻る途中で、二見浦に行くよう命令した。外宮の次は内宮をお参りすべきと申し上げたが「門前払いされるのならば、どこから拝んでも同じことではないか。」といって聞き入れなかった。
森さんの頃(明治20年)は、大臣でさえも内部に入ることは許されなかったのかは知らない。また、今も大臣は一般民衆と同じところで参拝しているのかも知らない。とにかく、森さんはあまりに意外な事であったので、とんだ破目に陥ったというのが事実である。

なお、残念ながら森本人や視学官、三重県知事の証言は残っていないようです。
しかし、森が本殿に勝手に昇殿したり、ご神体の御鏡をのぞいた、などはとんでもないデマであることは確実です。

<どれが真実なのか?>
伊勢神宮の正宮は、その時代時代によって姿を変えてきました。江戸時代末まで、本殿は現在のように、瑞垣、内玉垣、外玉垣、板垣、の四重に囲まれている姿ではなく、瑞垣と内玉垣しかありませんでした。このため一般の参拝者も内玉垣御門前までは自由に入ることができました。
しかし王政復古、祭政一致を掲げた明治政府としては、この現状はあまりに威厳を欠く姿でした。そこで、明治2年に行われた式年遷宮の際に、外玉垣と板垣が大急ぎで復興されたのです。
ただ、森が参拝した際はその再建から18年が経過していました。素木の外玉垣御門も外玉垣も、風雨でおそらく相当痛んでいたでしょうし、門の帳(幌)をくぐってさらに奥に進めると考えたのは、むしろ自然だったのではないでしょうか。

伊勢神宮ホームページの案内図を抜粋し、改変

それより不思議なのは、なぜ森大臣を混乱させるような「ぶっつけ本番」の段取りにしたのか、なぜ事前に参拝の作法をきちんと説明しておかなかったのか、ということです。
尾寺禰宜や亀田主典から見れば「事前に秘書官が説明していると思っていた」となるでしょうし、秘書官からすれば「それは神官の側で説明してくれると思っていた」となるでしょう。今でもこうしたボタンの掛け違いはよくあることなのかもしれません。
いずれにせよ、細かい参拝作法など知る由もない森大臣は、外宮の参拝で神官にとがめられてしまい、立腹して内宮は参拝しないまま二見浦に行ってしまった、ということなのでしょう。

<森大臣が世間から嫌われた理由>
しかしそれにしても、こうした尾寺禰宜や亀田主典の態度はあまりに冷淡ではなかったかと思えます。単に事前の打ち合わせ不足というより、いじわる、悪意さえ感じるほどです。冒頭でも書いたように、森有礼は福沢諭吉らと共に明六社を設立した文明開化論者で、日本語をやめて英語を公用語にしようと提案したり、日本で初めての契約結婚をした開明的な人物でした。こうした過去が伊勢神宮側から警戒されたのかもしれません。
しかし中西論文によれば、この時期、もっと実際的な森への嫌悪が地元の伊勢(宇治山田)には広がっていたそうなのです。
それまで全国で使われる暦(カレンダー)の多くは「伊勢暦(いせごよみ)」であり、製作と配布は伊勢神宮が独占的に行っており、明治維新後も伊勢神宮(神宮司庁)が引き継いでいました。しかし明治21年4月に、森は暦の製造を政府(大蔵省印刷局)に移管し、配布も政府(文部省)が行うように制度を改正したのです。これは編暦を学問的見地から行う必要によるものでしたが、宇治山田の一大産業だった暦作りは禁止され、数百人の職人が失業しました。これが森個人への怨嗟につながっていたそうです。

伊勢暦(三重県ホームページ 歴史の情報蔵より)

一方で、文部大臣に就任した頃の森は、かつて吐いていた過激な西洋信奉思想からは脱しており、むしろ明治天皇の意を体して、儒教的な徳目による学校教育の推進に非常に熱心になっていました。この、変節とも取れる彼の変貌には困惑した人も多かったらしく、それが不敬事件の噂をいっそう広めてしまったとも推測できるとのことです。

<こうも考えられないか?>
ここからはあくまで私見です。
私は禰宜の尾寺信に注目します。
尾寺信こと尾寺新之丞は長州出身の士族で、松下村塾で吉田松陰から学び、奇兵隊にも参加した志士でした。維新後は明治政府の役人となって、伊勢神宮には明治13年から奉職したのです。伊勢神宮の神官(神職)は江戸時代までの世襲制から、国家神道化に伴って国家公務員化され政治任用職となっていました。維新に功績があった尾寺もこの流れによる就任だったはずで、文明開化論者でしかも薩摩閥の森を心良からず思っていたことでしょう。さらに、森の暗殺犯も実は長州の士族であり、同郷の縁で何らかのつながりがあったこととも当然推測できます。神官の尾寺にとって森大臣の行為は常識を欠く行為で、それが長州人脈のつながりで犯人にも伝わり、歪んだ怒りを爆発させたのかもしれません。
ただ、その後の犯人と禰宜の運命はまったく違いました。暗殺犯の男は森を刺した直後、護衛の警官によって現場で斬殺されました。尾寺は明治33年まで平穏に禰宜の職を勤め、その翌年に75歳で没して、従五位に叙されました。

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