法然の「神祇不拝」と伊勢神宮
<京博「法然と極楽浄土」へ>
現在、京都国立博物館で開催されている展示会「法然と極楽浄土」へ行ってきました。法然(円光大師)は言わずと知れた浄土宗の開祖で、それまでは上流貴族など一部の限られた人々の信仰であった浄土思想を広く一般庶民にまで普及させ、極楽往生への方法としての「専修念仏」を提唱し実践した、日本宗教界のイノベーターと言える偉人です。
その深遠な理論や、念仏の実践に捧げた苦難の生涯については、すでに多くの書籍もあるし、この企画展でも国宝の「早来迎図」を始め、多くの文物が展示されていたので、法然や浄土宗に関しては、ぜひそちらをご覧いただきたいと思います。
さて、法然と伊勢神宮の関係です。
伊勢市にはつい最近まで、法然の遺構として厭離山欣浄寺(おんりさん・ごんじょうじ)という知恩院の末寺が現存していました。現存していた、と過去形なのは、令和3年7月に火災が起こり、本堂を含む伽藍すべてが消失してしまったからです。現在は、再建を目標に信者の方々が仮本堂を運営されているそうです。
ネーミングからして、厭離穢土、欣求浄土という浄土宗の思想を体現している感があります。
<法然による日の丸名号の奇跡>
伝説によると、法然は浄土宗を開宗した直後の治承1年(1177年)に、念仏弘通(ぐずう)を祈念するため、伊勢神宮に参籠しました。
7日目の朝に、奇跡が起こりました。
念仏をしていた法然の前に大きな日輪が現れたのです。そして、その輝きの中に「南無阿弥陀仏」の六字名号が金色の光を放っていたのでした。これこそは天照大神の神慮に念仏が認められた証であると確信した法然は、その様子を描きとって伊勢神宮・外宮に奉納したとのことです。
この日輪の名号は「日の丸名号」として宝庫に納められていましたが、後にその宝庫が兵火にかかる事態が起こり、火の手があわや迫ったときに、この名号が火中から飛び出し、近くの篠の葉にかかって光を放ったとの伝説もあり、これから「篠葉(しのは)の御名号」とも呼ばれるようになりました。
一方で、客観的な史実としては、この欣浄寺が開山されたのは、法然が活躍した12世紀末からもっとずっと後の、天文九年(1540)年とされています。開山はされたものの、事情から寺の場所を転々と変え、最終的に現在地の伊勢市一之木町に落ち着くことになったようです。したがって、法然が伊勢神宮参籠の拠点としたのも、本来はこことは別の場所であったことになります。
<神仏習合、本地垂迹説は当時の常識だった>
それでは、法然は実際に伊勢神宮に来たのでしょうか。
法然の時代、つまり平安時代の末期は、いわゆる神仏習合が社会の常識であり、これを疑う者はいませんでした。神祇が日本古来の神であるのに対して仏教は外来宗教であり、本来は別々のものだ、などという意識は天皇を始めとして、公家や武士、宗教者、さらには一般民衆もまったく持ち合わせていませんでした。
それどころか、天照大神など日本の神々は、大日如来や薬師如来などが姿を変えたもので、末法の世となって仏法による救いはなく、さらに世界の中心からも遠く離れた辺土粟散にある日本に、救済をもたらすために現れたもうたものだ、と考える本地垂迹説もまた、社会の常識と言えるものでした。わざわざ仏が神に姿を変えて国土や人々を守ってくれるので、我が国日本は「神国」と呼ばれていたのです。
比叡山で学んだ法然も、当然こうした常識に立脚していたはずで、天照大神の本地仏を阿弥陀如来だと考えていたのでしょう。極楽往生をかなえる唯一の手段である、阿弥陀仏への専修念仏を日本の民衆に広めるにあたって、はるかに遠い浄土の彼方にいる阿弥陀仏が、姿を変えて天照大神として伊勢神宮にいらっしゃる。ならば、そのお許しと助力を得たい、と考えたのは当然のことだったと思います。
<では、本当に伊勢神宮に来たのか?>
さて、その法然の伊勢神宮参籠に関しては、歴史学者の山本博子さんによれば、「法然上人行状画図」をはじめとする法然の伝記類には記述がみられないそうです。
そのうえで、
史料上、法然の伊勢参宮が確認できるのは寛文十年の大火以降である。
という興味深い指摘をされています。
寛文10年(1670年)に伊勢神宮・外宮の鳥居前町である山田(現在の伊勢市の中心部に当たる)で大火が発生し、民家はもちろん、多数の寺院が焼失。多くの焼死者も出しました。
江戸時代の初期、伊勢(宇治山田)は今とは全く違う、「仏都」の様相を呈している都市でした。伊勢神宮の周辺には何百もの寺院やお堂が密集し、多くの僧尼や山伏が活動していたのです。山田大火によって、これらの多くが被災してしまいます。
そこで、山田奉行(徳川幕府が宇治山田の統治のために設けていた遠国奉行)であった桑山丹後守貞政は、この機会に由緒の不明な寺院やお堂の廃絶と、郊外への強制移転を断行します。これによって、仏都・宇治山田の都市景観は大きく変貌することになります。
山本さんは
この大火以降、寺院は伊勢神宮から遠ざけられ、廃寺となったものも多く、寺院は強い危機感をもたざるを得ない状態であったと思われる。法然の参宮の有無はともかく、伊勢神宮との結びつきを強調することは、神宮周辺の寺院にとって有利なことであったと考えられる。
と説きます。
天下泰平となり、爆発的に普及し始める「お伊勢参り」で多数の参宮客が押し寄せていたこともあって、寺勢の維持と拡大のために、全国に多くの信者がいた法然の逸話を広めた、というストーリーはありそうなことで、非常に説得力を感じます。(「法然上人霊跡第十二番欣浄寺について」印度學佛教學研究第47巻第一号 平成10年)
先ほどの日の丸名号にまつわる法然の参籠にしても、天照大神は内宮の祭神なので、そこで得られた啓示を、内宮と対立していた外宮に奉納したことは私個人としては解せません。
<法然は神祇不拝と考えたのでは?>
法然自身は神祇信仰を明確に否定はしていません。しかし、専修念仏によって人々は直接、阿弥陀仏とつながれるのだから、その垂迹に過ぎない神祇に、わざわざ祈る必要性はそれほど高くないと考えていたのではなかったでしょうか。
神祇不拝を厳しく非難し、専修念仏を不敬として激しく弾圧したのは、神社の神職よりも、むしろ興福寺や延暦寺のような権門寺院でした。先ほど述べたように、仏教の世界観の中に天照大神を始め八幡菩薩や山王権現、春日明神などの神々は完全に取り込まれていました。12世紀当時、これを疑う者はいませんでした。
法然の念仏はその既存秩序を乱し、人々が阿弥陀如来とじかに結びついてしまう、ひいては権門寺院の無意味化につながりかねない、非常に危険な思想だったのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?