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アナログレコード盤から音を拾い上げるという行為
レコード盤をセットして聴き始めた時に、インダストリアルデザインに通じるものをふと感じたことを語ろうと思う。
ビニール素材に強い圧縮をかけて音の溝を押し付けて刻むという、今となってはとても情緒深い手法で音を記憶する。縁から中心に向かって途切れることなく繋がった、一本の極こまかい溝に音が刻まれているということ自体に驚きを覚えるが、その溝をトレースすることで、盤に記憶された音を拾い上げて音楽として聞かせてくれるのだ。
音が刻まれたレコード盤は実体を伴うモノとして存在し、音を拾い上げるレコード針もまた実体を伴うモノとして存在する。そして、その先にある、音を増幅させ音量を伴った実体に変化させるアンプだったり、音の出口となるスピーカーだったり、実体を伴うモノ達の組み合わせで音楽を楽しむことができる仕組みだ。
実体が無いデジタルデータ
翻って、昨今のサブスクリプション配信によるデジタルデータの音楽はどうだろうか。
音楽を聴くという体験値のゴールの姿は同じと言えるが、その体験値に至るまでの過程には大きな隔たりがある。
音のデジタル化でレコード盤の代わりに登場させたCDというメディアは、刻まれた溝を感じるという物理的な体験こそなかったにせよ、盤を回転させて光学の針で音を拾い上げるという仕組みはレコード盤に倣ったもので、盤をプレーヤーにセットするという儀式は存在し通過しなければならなかった。
デジタル配信音楽は違う。そういった儀式めいた過程の一切を飛び越えて、音楽を楽しむという行為が可能だ。いきなりゴール地点の、音楽を聴くという行為を手軽に手に入れることができる。
儀式自体が古臭いと言ってしまえばそれまでで、面倒さを楽しみ、手間暇をかけてゴールを目指すということ自体が、所謂、贅沢品として扱われる。
黎明期にはなんとかそれを改善してもっと簡単にできるようにならないか?と、先人達がもがいて簡単便利な世の中を切り拓いてきた。簡単便利が生み出す、非常に効率的で簡素化された世界。確かに人々が希望する目指してきた世界ではあるだろう。
実体を伴う“モノ”という存在
さて本題。
実体を伴うモノのデザインは、そういった意味では非常に非効率的なことへのせめてもの抗い(あらがい)で、人が生活活動を続けていく以上は何らかの実体を伴ったモノが必要だ。しかしながら、ゴールだけ味わうことが出来ればいいという簡単便利を追求していくと、無味無臭な実体しか必要とされなくなり、途中経過の儀式めいた体験値不要という空虚な世の中でもいいんだ、という究極論に達してしまう。
インダストリアルデザインは、決してそういう世の中にならないようモノに甘美な実体を与えるために、最後まで抗うレジスタンス的な仕事なのかもしれない。
不便さを楽しんでわざと遠回りして手間暇をかけてゴールを目指す世界がやっぱりいいんだ!ということではなく、そういった本質的な、暖かい記憶を呼び起こしてくれるような実体を与え続けることを、インダストリアルデザインの役割として、これから更に求められていくような気がするということだ。
最後に再びレコード盤のこと
忘れてはならないのが、ジャケットの存在だ。正方形というフォーマットの範囲内で展開された、ジャケットアートという名もまとった商品パッケージ。音が針で拾い上げられるという盤本体の実体に加えて、大きな魅力に仕立てているもう一つの張本人はジャケットアートだ。(アナログ作業=実寸でジャケットデザインを仕立てていたと思うと、さらに感慨深い)
メタバースの機運の高まりで、NFTアートなるものに価値が付加され始めている。言うまでもなく実体が無いまさにバーチャルな存在で、レコードジャケットアートとは対極にある新しい価値観の最先端をいく。
視覚情報として脳内に入ってくる情報として捉えれば、レコードジャケットアートもNFTアートも、バーチャルワールドの技術進化に伴って、恐らくは大した違いになりもしないことになっていくのだろうな。
それでも実体感を手に取って、ぬくもりすら感じることができるレコード盤は、少なくとも2022年の現時点では、まだまだあり続けて欲しい、大切な“モノ”であることには違いない。