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『世界の哲学者が悩んできた「老い」の正解』岡本裕一朗【試し読み】

老人はやはり“邪魔者”なのか?
私たちは「老い」をどう迎えたらいいのか——
人気哲学者が本気で考えた、“やすやすと死ねない時代”の論理と真理!

この記事では2023年11月16日発売の岡本裕一朗著『世界の哲学者が悩んできた「老い」の正解』の「はじめに」を全文公開いたします。


はじめに


超高齢化社会に不可欠となる「老いの哲学」

本書は、21世紀の現代において、「老い」をどう迎えたらいいのか、哲学的に考えるために書いたものです。
しかしながら、一口に「老い」といっても、そのあり方は時代によって大きく違っています。また、「老い」について哲学的に考えるとはどういうことか、必ずしも明らかではありません。

そのためにまず、私が現代という時代をどのようなものと理解しているのか、また哲学的に考えるとはどういうことか、あらかじめお話ししておくことにしましょう。

本書で「老い」について考えるとき、私が指針としているのは、フランスの哲学者フーコー(1926~1984)が1982年に発表した論文で語った文章です。彼は亡くなる2年前に、カント(1724~1804)の『啓蒙とは何か』(1784)について次のように書いています。

「啓蒙とは何か」という問いを発したとき、カントが言わんとしたのは、「たった今進行しつつあることは何なのか、われわれの身に何が起ころうとしているのか、この世界、この時代、われわれが生きているまさにこの瞬間は、いったい何であるのか」ということであった。(中略)われわれは何者なのか——歴史の特定の瞬間において。

ここでフーコーが、カントの名前を使いながら語っている問い、これを本書の基本に据えたいと思います。私が考えたいのは「老い」ですが、これは「私たちの身に今、何が起ころうとしているか」を考えることです。言いかえると、「老いの今」を考えることが必要なのです。
しかし、「老い」を考えるとき、どうして「今」が重要なのでしょうか。

哲学にとっての「今」とは?

哲学にとって「今」という時代が重要であるのは、単なる一般論ではなく、特別な理由にもとづいています。それは、現代(今)というこの時代が、歴史的に大きな転換点にあるからです。しかも、この歴史的転換は、数十年単位の出来事ではなく、数世紀単位の転換にほかならないのです。

この意味を理解していただくために、ルネサンス期の活版印刷術の例を挙げてみましょう。この印刷術は、15世紀中にヨーロッパ全土に広がり、ルターの宗教改革やヨーロッパの国民国家形成を促したことは、よく知られています。

この時期、いわゆる「中世」から「近代」への歴史的転換が引き起こされたのです。ひるがえって、まさに現在、活版印刷術に代わる新たなメディア=デジタル情報通信技術が登場しています。
とすれば、「近代」から「新たな時代」への歴史的転換が、今まさに進行中である、と考えられるわけです。

そのため、現在進行中の出来事は、「近代」から「ポスト近代」への転換と表現することができます。今まさに「近代の終わり」を迎えていて、新たな世界が始まっていると言えるのです。

こうした「近代の転換」は、「老い」を迎える私たちをどこへ導くのでしょうか。言うまでもなく、これは他人事ではなく、私たちに直接降りかかってくる問題です。フランスの歴史家で、1987年に『老いの歴史』を刊行したジョルジュ・ミノワ(1946~)は、次のように書いています。

現代において、老人に対して新たな関心が高まっている。(中略)老人がこれほど問題になったことはかつてなかったし、人々がこれほど老人に関心をいだいたこともなかった。

「老人」への関心が、どうして今日、高まっているのか。予想通りの答えかもしれませんが、ミノワはこう言っています。「今日の西洋社会において、高齢者の割合がこれほど高くなったことはかつてなかったからだ」と。そして、今までは社会のなかで「マージナルな(辺境の)存在」だった老人が、「きわめて普通の市民」になりつつある、と皮肉交じりに語っています。

実際、日本の場合を考えてみても、内閣府の発表によれば、2053(令和35)年には、わが国の人口は1億人を下回って9924万人に、2065(令和47)年になると8808万人になると予想されています。

その反面、高齢化率は上昇し続け、2065(令和47)年には38.4%に達し、国民の約2.6人に1人が65歳以上になると推計されています。
さらに、総人口に占める75歳以上の人口の割合は、同年25.5%となり、約4人に1人が75歳以上になるとされているのです。

「長寿化」は“贈り物”なのか、あるいは“呪い”なのか

たしかに、日本では「少子高齢化」社会の到来がかなり前から叫ばれ、老人の人口割合が増加しています。そのため、「白髪族の侵略」などとも揶揄やゆされることもありますが、問題は人口が増えたことだけではありません。むしろ、ポイントは長寿化、つまり平均寿命が伸びたことにあります。

「人生100年時代」を提唱したリンダ・グラットン(1955~)は、その共著書『ライフ・シフト』のなかで、次のように語っています。

私たちはいま途方もない変化のただなかにいるが、それに対して準備ができている人はほとんどいない。(中略)その大きな変化とは、長寿化の進行である。

かつての社会では、「人生50年」とか「人生70年」とか言われてきました。イメージ的には、近代以前の社会が「50年」、近代社会が「70年」というところでしょうか。社会のさまざまな制度も、この寿命に合わせてつくられています。

たとえば、「人生70年時代」の近代社会では、定年退職の年齢が50~60歳に設定され、その後の「老後」もそれほど長くはなかったのです。これなら、経済的にも何とかできそうです。ところが、ポスト近代になった現代においても、定年退職の年齢はあまり変わっていません。それなのに、寿命が伸びて「人生100年時代」になるとどうなるのでしょうか。

単純に、仕事をしなくなっても、その後40年から50年も生きることになります。これこそが大問題なのです。
差し迫ったことを言えば、収入はどうなるのかが、定年後すぐに不安になることでしょう。私の目から見ても、これほどの長い期間を年金だけでやりくりできるとは思えません。

現役時代に貯蓄すると言っても、たかが知れています。
定年の年齢が60歳だとすると、働いた期間(だいたい40年)と同じだけ退職後も生きるのですから、それを賄えるとは思えません。また、公的年金にしても、老人の数が増えるだけでなく、支給期間がさらに長期化すれば、年金制度そのものが維持できるか、だれでも気になるはずです。

もちろん、収入の問題だけでなく、私たちの生き方全体に「老後」はかかわってきます。
ところが、現在の社会状況を見ても、その対策どころか、準備すらもできていないようにしか思えません。
たとえば、グラットンは次のように語っていますが、私たちはどこまでこのことを自覚しているのでしょうか。

私たちの人生は、これまでになく長くなる。私たちは、人生のさまざまな決定の基準にしているロールモデル(生き方のお手本となる人物)より長い人生を送り、社会の習慣や制度が前提にしているより長く生きるようになるのだ。それにともなって、変わることは多い。変化はすでに始まっている。あなたは、その変化に向けて準備し、適切に対処しなくてはならない。

たしかに、グラットンが語るように、私たちは今までにないような時代の入り口にさしかかっています。「人生100年時代」という長寿化を迎え、このなかで生きていくことになるわけですが、そのとき経済的に「どうやって生き続けるか」さえ、わからないのです。しかも、その準備はまったくできていません。

とすれば、「長寿化」は私たちにとって、はたして“贈り物”なのでしょうか、それとも“呪い”というべきでしょうか
21世紀を迎え、私たちの時代は「ポスト近代」の入り口にさしかかり、「人生100年時代」という長寿化社会が到来しつつあります。この事実を、私たちはいったいどの程度、本気で自覚しているのでしょうか。

「今、どう生きていくか」という切実な問題

個人的な話で恐縮ですが、私は1954年生まれなので、もうすぐ70代に突入します。わが国の社会保険制度にのっとれば、すでに前期高齢者(65~74歳)の仲間入りをしていることになるわけです。

4年ほど前には、勤めていた大学も定年退職し、まさに「引退後の人生」を歩んでいます。そのため、「老い」の問題は他人事ではありません。ソクラテス(紀元前470頃~紀元前399)は「どう生きるか」を哲学の根本的な問題としました。私たちは、これからあと何年生きていけるのかはわかりませんが、いずれにせよ「今、どう生きていくか」が、切実な問題となっているわけです。

おそらく、読者の皆さんも、私と同じ年代の方が多いかもしれません。あるいは、私よりも先輩の方々かもしれません。
しかし、「老い」の問題は、当事者だけでなく、やがて「老い」を迎える人びとにこそ、差し迫った問題だと思います。

長寿化の傾向はこの先ますます進むはずですから、現在の若い人びとこそが、「人生100年時代」のど真ん中になるのです。その点では、「老い」の問題は決して若い人にとっても他人事とは言えません。やがて自分にも到来する出来事なのですから、今から考えておいても悪くないのではないでしょうか。

他人事と見なすか、自分の問題と考えるかは、どちらでもかまいませんが、現代が時代の転換点にあることを、あらためて皆さんと共有したいと思います。

ここでもう一度、フーコーの問いを引用しておきます。

「たった今進行しつつあることは何なのか、われわれの身に何が起ころうとしているのか、この世界、この時代、われわれが生きているまさにこの瞬間は、いったい何であるのか」

2023年10月 岡本裕一朗


もくじ


〈 はじめに 〉
超高齢化社会に不可欠となる「老いの哲学」

〈 プロローグ 〉
かつて、老人は「廃品」であった
・高齢者は「切腹」すれば、それでいいのか?
・老人は社会の「廃品」であり「屑」である
・権力を握った高齢者こそが問題
・キケロの老年論は「老害」そのものだった!?
・私たちは長老、資産家老人、再生老人、廃品老人のどれか?
・「ネットの民」を先取りしていたルキアノス

〈 第1章 〉
「老人」VS「若者」
という図式は本当に正しいのか?

1.「若者」と「老人」では
根本的に何が違うのか?
・キルケゴールによる若者と老人の違い
・「未来志向」型の若者と「過去志向」型の老人
・進歩主義、伝統主義、保守主義の違いと世代間対立
・「国葬反対デモは高齢者ばかり」

2.若者の敵は本当に老人なのか?
・なぜ、フランスの若者は年金デモに参加したのか?
・リタイア後にすることがない人生に意味はあるのか?

3.老後の仕事とお金という大問題
・老後の生活をどうやって維持するのか?
・定年後に「リサイクル品」となる老人たち
・ドゥルーズが提起した「制度の危機」

〈 第2章 〉
老後生活はどのように
「監視」され、「管理」されていくのか?

1.ボーヴォワールの「老い」と近代の終末
・ボーヴォワールが想定した「近代の老い」
・「廃品」としての老人は、どこに棄てられるのか?
・近代社会と「パノプティコン」の誕生
・フーコー+ボーヴォワール=近代モデルの完成

2.ポスト・パノプティコン時代に、
「老い」はどう変化していくのか?
・ドゥルーズが見抜いた「ポスト・パノプティコン」時代
・アナログな「監視」からデジタルな「管理」へ
・境界線の消滅と液状化

3.閉鎖から開放へと
向かう「介護」と「医療」の未来像
・ドゥルーズが与えた高齢化社会へのヒント
・「ヘビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑」
・少子高齢化は歴史的必然である!
・グラットンが考える新たな「ライフステージ」

〈 第3章 〉
哲学者は自身の「老い」をどう考えてきたのか?

1.「老い」をめぐる
プラトンとアリストテレスの違い
・プラトンとアリストテレスの奇妙な師弟関係
・「老い」を積極的に評価するプラトン
・アリストテレスの強烈な老人批判
・師弟はなぜ、「老い」に関して真逆の考えだったのか?

2.キケロとセネカが、
「老い」を賞賛したのはなぜか?
・老人政治を取り戻すために書かれた『老年について』
・次々と老人のマイナス点に反駁する大カトー
・「老い」を自然なものとして受け入れていたセネカ
・自分で息を止めて死んだストア派の開祖ゼノン

3.社会の問題から
個人の問題へと変化した「近代の老い」
・「老人」は近代になって忌み嫌われるようになった
・モンテーニュの「老い」に対する理解
・老後こそつかむべき「快楽」のチャンス
・パスカルの「人間死刑囚論」と「気晴らし」の関係

4.ショーペンハウアーを乗り越えた
ニーチェの前向きな「老後観」
・ショーペンハウアーの「幸福論」
・苦痛のない人生こそが幸福である
・人生の「否定」から「肯定」へと転向したニーチェ
・森の老人とツァラトゥストラ

〈 第4章 〉
老人にとって、真の「幸福」とは何なのか?

1.「老い」への態度を逆説的に示す3大幸福論における“不在”
・老いとは「他者の侵入」だった!
・「実存は本質に先立つ」サルトルの実存主義の意味
・「若者の行動原理」としての実存主義
・サルトルには「老い」の自覚がなかった!

2.フーコーが批判されても
貫き続けた「貫かない」生き方
・軽やかに“変節”していく哲学者フーコー
・「同じままであり続けろ」と言わないでくれ
・晩年まで好奇心のおもむくまま思索し続ける
・「自分自身の生を個人的な芸術作品にする」

3.九鬼周造の「いき」な
生き方は、日本人のモデルになる!
・ヨーロッパ滞在時に生まれた「いき」の思想
・「媚態」「意気地」「諦め」という「いき」の3要素
・垢抜けして、張りのある、色っぽい「老後」
・なぜ、ハイデガーは「いき」を理解できなかったのか?

4.今の私たちが立ち戻るべき
アリストテレスの「エネルゲイア」
・「形而上学」の本当の意味
・アリストテレス流「幸福」のあり方
・サルトルの思想より「エネルゲイア」が大事な理由

〈 第5章 〉
先行き不安な時代に、私たちはどう
「老いながら生きる」のか?

1.ツリーからリゾームへ──
ライフスタイルの変化
・「根づく」時代から「広がる」時代へ
・「デジタルの首輪」をつけた社員たち
・コロナ禍が生んだ「定住民型」から「ノマド型」への変化
・仕事が遊びになり、遊びが仕事になる

2.ポスト近代の理想となる
「コンヴィヴィアル」な生き方
・崩れ去った「学校=教育」という等式
・みんなが生徒になり、同時に先生になる時代
・近代の終焉と「コンヴィヴィアリティ」
・「節制ある楽しみ」としての共生
・コンヴィヴィアルな老いの生き方

3.テクノロジーの進化は
「老い」をどう変えるのか?
・人間の寿命はどこまで延びるのか?
・「老化」は本当に防止できるのか?
・医学的な「死の延期」はどこまで許されるのか?
・進む人間の「サイボーグ化」
・AIに恋する時代がやって来る?

〈 エピローグ 〉
老人は若者の未来である!
・現代社会にあふれる「使い捨て若者」
・終わりなき「老人叩き」より、はるかに大事なこと



ここまでお読みいただきありがとうございました!岡本裕一朗 著『世界の哲学者が悩んできた「老い」の正解』は全国の書店・ネット書店にて発売中です。
続きはぜひ本書にてお楽しみいただけたら嬉しいです、よろしくお願いいたします。

\ 2023年11月16日発売 /
岡本裕一朗 著
世界の哲学者が悩んできた「老い」の正解

岡本 裕一朗(おかもと・ゆういちろう)
哲学者、玉川大学名誉教授。
1954年福岡県生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。九州大学助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋の近現代哲学を専門としつつ、哲学とテクノロジーの領域横断的な研究も行う。
ベストセラーとなった『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社、<文庫版>朝日新聞出版)をはじめ、『「こころ」がわかる哲学』(日経ビジネス人文庫)、『哲学100の基本』(東洋経済新報社)、『教養として学んでおきたい現代哲学者10』(マイナビ新書)、『哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる』(KADOKAWA)など著書多数。

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