緬甸方面軍宣傳班からの挨拶及び第一回記事
はじめに
はじめまして、緬甸方面軍宣伝班と申します。
以前You Tubeで音声読み上げソフトを用いた戦史の解説動画を作成していたのですが、より詳細に解説するためにはやはり文章が最も良いと考え、こちらを開設した次第です。
動画の方も将来的にはこちらの記事を基に制作していこうかと思っております。
先の大戦におけるビルマ(現 ミャンマー連邦共和国)の戦史解説記事を通して、読者諸賢に英霊の顕彰や平和の尊さといったものを伝え、日本ではやや身近に考え辛い「戦争」というものについても考えて頂くきっかけとなれれば、当宣伝班にとって幸甚これに勝るは無く存ずる次第です。
さて、ビルマ戦線は代表的な一部を取り上げると、開戦劈頭の楯兵団、および弓兵団による攻勢に端を発し、瞬く間にビルマのほぼ全土に加え、雲南省の一部までをも攻略した電撃戦、三十一号作戦(第一次アキャブ戦)、雲南省の警戒討伐、ウィンゲート兵団の掃蕩作戦、フーコン谷地における持久作戦、ハ号作戦(第二次アキャブ戦)、ウ号作戦(インパール作戦)、断作戦、盤作戦、完作戦、邁作戦…
これらの戦闘では攻撃戦闘、防禦戦闘、追撃戦、退却戦などがその時に応じあらゆる形態をなし、同時に極めて様々な戦訓を今日に伝えている。
本宣傳班は、こうしたビルマ戦線の多彩な戦闘やそれに至るまでの経緯、戦闘経過、将兵の奮戦にまつわる逸話や従軍将兵の回顧などを出来るだけ解りやすく伝えていけたらと思う次第である。
執筆活動の経験もなく、戦史の知識も独学で身に着けたもの故に乱文や拙文となるやもしれませんが、ご容赦願いたい。
※作戦名称等は当時の日本軍側の呼称を主に用いる。 また、用語などに一部今日では不適切な表現を用いる可能性があるものの、特に断りのない限り当時の表記や呼称を尊重しそのまま用いる。 仮名遣い等を除いては当時の表記や呼称に出来るだけ忠実にするという意図のみであり、当方に差別その他を助長する意図は無いことを予め記す。 ご了承願います。
日本軍は何故ビルマに注目したのか
泥沼化する支那事変
日中両軍の不期衝突に端を発した支那事変(日中戦争)。
日本軍にとってビルマが注目されたのはその最中である昭和十三年。
この年我が軍は南京より遁れた国民党政権の本拠地である広東、武漢を攻略するも、蔣介石以下はさらに奥地である重慶に遁走。
蒋介石は列強各国の支援を受けつつ、尚も抗日戦争の続行を叫んだ。
各地で大勝を収める日本軍であるが、果てしなく続く中国大陸を奥地へ、奥地へと遁れる国民党軍に対し日本軍は決定打に欠け、戦線を拡大し前線に行けば行くほど「点と線の支配」となる日本軍部隊の中で突出孤立した部隊などはしばしば大規模な反攻に晒され、日本軍が受ける損害も決して小さくはなくなって来た。
支那事変は泥沼の様相を呈し始めたのである。
援蔣ルート
泥沼化の様相を呈する支那事変。
蒋介石率いる重慶政権の継戦企図を挫き、これを屈服させる為には如何に戦争を指導するべきであろうか。
ここで、こうした日本軍の戦争指導上の問題となったのが蒋介石を支持する列強各国の支援物資を運搬する、所謂「援蒋ルート」である。
日本軍はこの援蒋ルートを封鎖する事により、重慶政権の抗戦企図の挫折を図り、主な四つのうち南支を経由する海上ルート、海路から仏印を経由し陸路で南支に至るルートは日本軍の作戦及び仏印進駐により封鎖。
他には長大なシベリア鉄道を経由する陸路もあったが、その輸送量が僅少であった為にこれの封鎖に関してはさほど重視しなかった。
さて、残る最後の援蔣ルートはビルマルート。
別名滇緬公路とも呼ばれ、中国軍の得意とする人海戦術による突貫工事で難路を切り拓き作られたものであったが、昭和十五年六月時点における推定月間物資輸送量は10万トンと膨大なものであり、日本軍指導部の頭を大いに悩ませた。
大東亜戦争開戦前は外交努力による封鎖を模索したが、その功は挙がらず、日本軍を悩ませていた。
また、英国との外交交渉に努める一方で、当時イギリスの植民地であったビルマに対し、独立派勢力を支援する事によりビルマの内部を攪乱し、ビルマルートの封止を試みる政謀略も行われた。
それらは後に特務機関・南機関として発展していく事になるが、これらの仔細はまた機会を改めて解説する。
対米英蘭開戦へ
しかし、こうした努力にも拘わらず泥沼化する支那事変への活路を見いだせないまま紆余曲折の末、日本は対米英蘭に対し宣戦を布告。 以て南方に進出し、重慶政権を支援する列強各国を直接撃砕し、対日包囲網を破り、更に重慶政権にも屈服を迫るという戦略に出た。
日本軍はこうして、後の大東亜戦争に向け開戦準備を進める。
大本営の考える戦争指導全般の構想としては、極東に於ける米英の重要拠点、香港・マニラ・シンガポールを攻略し、更に蘭領インドの資源地帯をなるべく広範に抑え、長期不敗の体制構築を目指していた。
日本軍、特に陸軍は計画段階では決して大東亜戦争が短期決戦で終わるなどとは考えていなかった。
それに伴い、当然開戦初期の日本軍の攻勢の後、将来的に予期される米英蘭の反攻に対し、重要拠点の更にその外方に反撃地域を確保する必要があった。
これは極めて重要な問題であったが、種々検討の結果、西の日本軍勢力圏における反撃地域は、概ねビルマを要との策定に至った。
だが、この段階ではまだビルマをどう攻略し、かつ防衛するのかは明確な計画が無く「南方作戦概ね一段落し、状況之を許す限り ビルマ処理の作戦を実施す」と述べられるに止まっていた。
ビルマ戡定作戦の具体化
参謀本部は昭和十六年八月から九月末にかけて、南方作戦全般に関する計画を概ね固めた。
これを要記するとこの当時の南方作戦軍は、南方派遣軍司令部のもとに三個軍と二個飛行集団を設置、第十四軍の二個師団で比島作戦を、第二十五軍五個師団でマレー作戦及び仏印・タイの確保、第十六軍で蘭印作戦を行うといったものであった。
この計画はのちに修正され、第二十五軍の後方を安定確保すべく別に一軍を設ける事となるのだが、この軍こそ当初弓・楯両兵団以下を従え、ビルマを瞬く間に戡定し、後にはインパール目前まで進出し、その後も終戦直前までビルマに留まり戦い続けた第十五軍であった。
しかし、そんな第十五軍は当初の計画ではタイ(泰)国要域に進駐、これを確保し、且つ一部を以って機を見てなしうればビルマ領モールメン等の航空基地を攻略する事を任務とする、第二十五軍の長遠なマレー半島及びシンガポールに対する突進作戦の後顧の憂を断つ事が主目的の予備兵団的な軍であり、ビルマ戡定は主目的ではなかった。
尚、その後の昭和十六年十一月十五日の大本営政府連絡会議で決定された「対米英蘭蒋戦争終末促進計画に対する腹案」では、まず英国の屈服を図る手段として「ビルマの独立を促し その成果を利用してインドの独立を刺戟す」とされている。
しかし、ビルマ独立促進の手段については武力によるものか、また謀略を主体とし、武力はこれの支援程度に止めるものかは明らかにされていなかった。
しかし、最終的に決定された南方作戦計画の南方作戦攻略範囲ではフィリピン、グァム、香港、英領マレー、ビルマ、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベス、ビスマルク諸島、蘭領チモール島等と示されており、明らかにビルマが攻略範囲に含まれている。
これに対し、当時大本営参謀であった瀬島龍三中佐は「開戦前に攻略範囲を決定する時、「ビルマ」と書くか「南部ビルマ」とするかが問題となったが、ビルマ作戦は将来どうなるか分からないのでただ漠然と「ビルマ」とされた」と回顧している。
また、当時参謀本部第二課長であった服部卓四郎大佐は
「最初、南方作戦の総合計画をまとめた時、右翼はタイ国に留め、ビルマは攻略範囲外だった。 ビルマを攻略範囲に入れたのは、その後の私の意見によるものであった。 右翼の拠点は絶対に突破されては困る。 しかし、英軍は必ずビルマから我が右翼を崩しに来ると思われるから、予め右翼はビルマまで出しておかねばいけないと考えたからである。 しかし、南方作戦に使用する陸軍兵力は北方に対する対ソ戦備その他の関係もあり、約十一個師団に絞られた。 特に東條陸相が南方作戦兵力の節約についてやかましく言われたので、南方作戦が一段落し、兵力に余裕が出来るまではビルマを固めるとしても、精々南部ビルマまでしか手が伸びないであろうと思っていた」と回顧している。
(※ここで言う「南部ビルマ」とはモールメンか、遠くてもラングーン付近と思われる)
更に、大本営の船舶運用計画にも、南方作戦後のビルマ作戦実施に必要な船舶運用については何ら計画されていなかった。
この様に、開戦前には実際の戦史で繰り広げられた様な大規模なビルマ作戦は計画されていなかったと推察される。
要するにビルマ処理に関する大本営の考え方は開戦時においてもなお、甚だ漠然としており、その後の緒戦における快進撃に応じて逐次具体化かつ積極化して行ったのである。
本記事のまとめ
・日本軍がビルマに注目したのは泥沼化する支那事変がきっかけ
・ビルマを通じて重慶軍に大量の物資が送られ、重慶軍との交戦のみではその遮断が極めて困難であった
・後に大東亜戦争の計画が具体化するに伴い、南方作戦におけるビルマの役割は援蔣ルートの遮断の他に、南方要域を守る反撃地帯の役割もあった
・しかし同時に大東亜戦争の開戦当初に至ってもなお、ビルマ攻略に関する計画は極めて漠然としていた
次回以降の降の記事予定
次回は、実際にビルマ戡定戦を担った第十五軍の編成及びタイ国進駐について詳述していく予定である。
またビルマ戡定戦の開始後は、ビルマ作戦に参加した膨大な部隊や長遠な戦線を全て同時に解説していくと難解となる上に混乱が生じる可能性が高いため、大まかな兵団毎に詳細な戦史を追っていき、その解説段階に応じて戦線全体の動きを大まかに述べる記事を作成しつつ追っていくものとする予定である。
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