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「知と愛」に関する雑録

・愛とは知であり、知とは愛である。しかしこれはもう西田幾多郎先生が言及なさったらしいので、オリジナリティーを付与すると、「愛することとは知ろうとする態度・行為であり、知ることは愛の獲得・醸成である」と言えるのでは。
 他者を愛するという行為は、他者の無限性に自身を浸すということでもあり、結局のところ、他者を知ろうとしないところに、愛は永遠に生じ得ない。知とは他への無制限の愛である。


・「絶対的に真実な愛」なるものは、それ自体では存在し得ない(ただし、これは決してキリスト教的な考え方を否定するものではない)。知への我々の弛まぬ志向によって、初めてそれを形成する幾らかの可能性が見えてくる。この意味で、対話とは愛の行為である。
・無知の知とは、自身が本当に他を愛そうとしているかを問う、極めて重要な省察的態度でもある。
・強いて「真実の愛」なるものを定義するとすれば、知性と悟性と感性によって織り成される無限のテクストであるとも言おうか。


・ここにおいて、恋と愛の相違も説明され得る。恋とは、自身の意志・欲望と言う影に目眩しを受けた状態を保ちながら、相手への個別性へと向かうということだ。この時はまさに「盲目」の状態で、恋は普遍性へと昇華されることはない(もしくは稀である)。
 愛とは、他(いわゆる「相手」)の人間性を、自身の知性をなるべく純粋な状態で見つめながら、あるがままを受け入れるべく自己を他に投企し、次第にその人を世界の全体性の中に置こうとする知の試みなのではないか。
 それゆえ、我々は本来全ての人と愛を契り合うべきなのだが、近代社会の制度下においてそれはあまりに非現実的であるから、全世界を代表する知の旅の同行者を一人定め、その人を愛することを以て、全ての知・人を愛そうと不断の努力を誓い合う。


・世界という、意識の無限の多層性を形成しようとする意味で、知とはengageすることであり、知性とはその営みに参画するための態度である。
・我々には等しく「知=愛」者になる権利と義務がある。

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