「生き直す」ということ
もう亡くなってしまったが、すごく近しい人で、身体に障害がある女性がいた。
彼女は、夫を亡くした後に事故で障害を負ったというが、自分に障害があることを受け入れず、持っていた障害者手帳を決して見せることはなかった。
人との接触も、できるだけ避けて生活していた。
亡くなるとき、身体の障害のある部分を折りたたんで、隠すように亡くなった。
死ぬほどしんどい思いをしたに違いないと、彼女の顔を時々思い出す。
他人の身体的特徴について、私たちは、ああだこうだと言ってしまう。
あの人は顔が整っているとか、どこか不格好だねとか。
私自身も、見ず知らずの外国人に「耳の形が謎めいている。先祖に秘密があるに違いない」などと言われ、一方的に自分の身体的特徴を評され、不快感を持った経験がある。
(若い私は、そんなことでも自分の出自と何か関係するものだろうかと、気にしたものだ)
人によっては「ホクロが多い」と言われることが、言われてすごく嫌なものだったりもする。
よく考えると、身体的特徴という、自分ではどうしようもないもの、変えられないものを他人に指摘されるのは、結構傷つく。
肌の色や生まれや性的指向もそうで、自分ではどうしようもないものだ。
でも、時には考え直してみたい、なぜ傷つく必要があるのかと。
そして、「それが何か?」と、返してみるのはどうかと。
身体の機能が何かしら不便でも、それは私ごとだったりする。
つまり、すごくパーソナルなことだと。
それに対して何か協力してくれるとか、理解したいとか、そういう意図がないなら、そっとしておいて欲しいというのが、言われた側の本心ではないか。
差別の中で生きている人にとって、「それが何か?」と跳ね返す力を持つこと自体が難しいんだと言われたこともある。
けれど、死ぬほどつらい思いをしていた人たちが、跳ね返す力を持つことは、前向きに生き直す力となると思う。
つらさと闘うのではなく、境遇に固執するのでもなく、そんな自分ではあるけれど、それがどうしたという姿勢が、私は大事だと思う。
誰かに何かを言われて傷ついて、死ぬほどつらいと思っている人に、声をかけたい。
私にはこれができます。
私はこれが好きです。
そっちの方が、生きていく上では何倍も大事だと思う。
※アイデアを蓄積する意味で、草稿的なものも時々アップしていきます。
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