「イン・ザ・ゲットー」から読み解く、エルヴィスとプロテストソング『エルヴィス』②【映画レビュー】
★★☆☆☆
鑑賞日:7月9日
劇場: ミッドランド名古屋空港
この映画の中でも、重要な曲として取り上げられた「イン・ザ・ゲットー」について書こうと思う。
エルヴィス・プレスリー、1969年発表のアルバム 『イン・メンフィス / In Memphis』 に収録。 プレスリー、4年ぶりのカムバックとなったこの曲は、シングルとして全米最高位3位、全英1位の大ヒットを記録しています。
『イン・メンフィス』 というアルバムは、エルヴィスにとって1955年以来のメンフィス録音。あのサンの時代以来のことです。
「イン・ザ・ゲットー」 はアルバムの最後に収録されています。メッセージ性の高い曲を歌うことに対し、周囲からは懸念する声もあったようですが、エルヴィスは怯むことなく歌ったと言います。
キャンディ・ステイトンを初め多くの歌手がカバーをしています。
映画の中では、前半部分のストーリーとからめて、それなりに説得力のある使い方をしているのですが、エルヴィスの歌うプロテストソングに、私はやはり違和感を覚えます。
ビートルズ、ボブ・ディランを経た時代に、では、何を歌えばいいか、と問われると、私も困るのだが、プロテストソングというのは、プレスリーの(心にもない)という気がしてならない。
思うに、デビューして間もなく、事故死したロックンローラーたちは、各自の在り方にふさわしい死に方をしたというべきである。
幸か不幸か、プレスリーは長生き(?)をしたために"愛されるエルヴィス"、"成熟したエンタテイナー"の時期を経なければならなかった。
本質的に青春の悩みを汗とともにわめき散らす歌手であり、偉大なる地方歌手であったプレスリーを、成熟させ、全世界に売ることに、最大の矛盾があり、そこにおいてこそパーカー大佐の手腕が発揮されたのだが、プレスリーの本質とは程遠い作業だったのだろう。
私たちの世代が、この映画を見るとかなりつらい。
この映画を見て悲しい気分になるのは、若い頃 自分自身について抱いていた幻想、夢、若さ、それらが失われたことに否応なしに気づかされ 残された肉のだぶついた身体と、狭い範囲での人生のスターにさえなれなかった自分自身の無惨な姿を気付かされるからだ。
(text by NARDAM)