【映画】「氷の花火 山口小夜子」感想・レビュー・解説
僕が「山口小夜子」の名前を聞いたのは、恐らく唯一、マツコ・デラックスの口からだったように思う。もう終わってしまったが、『マツコ会議』という番組の中で、マツコ・デラックスが彼女について度々言及することがあったように思う。
そしてだからこそ、その事実がとても不思議に感じられる。僕は映画を観るまで、山口小夜子のことはほとんど知らなかったが、観ればその凄さは理解できる。だから、どうして今、その名前を聞く機会がほとんどないのか不思議だ。
比較するのはおかしな話かもしれないが、それは僕の感覚では、「安室奈美恵の名前がほとんど言及されない」のに近い印象がある。安室奈美恵は既に、歌手活動を引退(なのか休止なのか)しているように思うが、それでも未だに、様々な場面で安室奈美恵の名前は出てくるように思う。山口小夜子も、そういう存在であってもおかしくないように思うのだ。
もちろん、僕が知らないだけで、山口小夜子の名前はあちこちで飛び交っているのかもしれないが、もっと僕のような人間でも知っててもおかしくないような人に思えるんだよなぁ。確かに映画を観ると、57歳で亡くなった彼女の晩年は、「アングラな芸術活動」がメインだったようで、ちょっと触れにくかったのかもしれない。映画に登場した、山口小夜子に憧れてフォトグラファーになったという下村一喜(確か彼も『マツコ会議』に出ていたし、その時も山口小夜子の話をしていたように思う)も、ある時期の山口小夜子に関して、「ファッション界は彼女のことを蔑ろにしていたように思う」みたいに言っていた。確かに彼女は、45歳の時に10年ぶりにパリコレの舞台に立っているし、モデルとしてもずっと第一線にいたと思うが、かつての山口小夜子を知っている人からすればもしかしたら、「もうファッション界の人ではない」みたいな感じになったのかなぁ、という気もする。
まあ、どうだか分からないが。
本作は、「駆け出しのディレクターの頃に山口小夜子の取材を担当したことがある」という縁で彼女と知り合い、その後個人的にも関わるようになっていった監督の松本貴子が、2007年に彼女が亡くなってから7年間未開封だった遺品を開けるところから始まる。遺品は、彼女のことを大切に思う人たちによって管理されていたのだが、松本貴子が無理を承知で、「遺品に深呼吸をさせてあげたいんです」とお願いし、7年ぶりに遺品を表に出すことになったというわけだ。
遺品の開封は、山口小夜子の母校である杉野学園で、彼女の後輩たちの手を借りて行われた。そして、遺品の中にあったものについての記憶を知る人たちのことを訪ねながらインタビューを行い、様々な人の中にある「山口小夜子」を引っ張り出そうとする作品である。
驚かされたのは、山口小夜子はかなり早い段階で世界に認められたということだ。確か19歳でモデル事務所に所属し、その後ザンドラ・ローズというデザイナーに認められて彼女のショーに出るようになる。その後1973年、23歳の時に資生堂と専属契約を果たすのだが、既にこの時には世界のトップモデルになっていたようなのだ。
山本寛斎がその時のことを語っていたが、パリコレなどに出ると、15ぐらいのオファーがあったそうだ。これはもう、当時としては最高レベルのオファー数だったという。さらに、当時はコレクションの最後はウエディングドレスと決まっていたのだが、ほとんどのコレクションで山口小夜子がウエディングドレスを着たと言っていた。一度のショーで30~40人のモデルが出演するが、ウエディングドレスを着れるのは1人だけ。それをあらゆるコレクションでかっさらっていくのだから、モデルの中でも凄まじい評価だったと言えると思う。ニューヨーク・タイムズだったかニューズウィークだったか忘れたが、「世界の4人の新しいモデル」にも選ばれたことがあるそうだ。
印象的だったのは、何人かの人が話していたが、「山口小夜子の目は、大きくて丸かった」という話。「山口小夜子」と言えば切れ長の目を連想する人の方が多いだろうが、実際にはそうではなかったそうなのだ。下村一喜は一度、憧れの山口小夜子を撮影する機会に恵まれたそうだが、「これから撮ります、となるとスッと目を細めるんです。自分でクリエイションしていたんですね」と言っていた。資生堂所属のメイクアップアーティストと共に作り上げた「小夜子メイク」も、切れ長の目を強調するものだったが、生涯そのスタイルを貫いたというわけだ。
また、山口小夜子の同級生で、彼女と共にスカウトでモデルに誘われたという女性は、山口小夜子のおかっぱについても印象的な話をしていた。2人は揃って雑誌の撮影を経験したそうだが(これが、山口小夜子のモデルとしての初めての活動だったが、学校の校則が厳しくて、一度モデルを辞めている)、その撮影の時に初めておかっぱ姿を見たそうだ。それまではそんな髪型にしていたのを見たことがなかったという。これも、彼女が自分でセルフプロデュースしていたことを示す話だろう。
身長は170cm弱と、モデルとしては背が低い方だったのだが、多くの人が「どんな服でも着こなす」「欧米人のモデルと並んでも、背が高いように見えた」と言っていた。休みの日には映画などを大量に観ていたそうで、そこから色んなインスピレーションを得ていたのだろうとある人物は語っていた。山口小夜子は何かのインタビューで、
『自分を空にする、自我を捨てると、服が自然とどこかへ連れて行ってくれるんです。こう動けばいい、ああしたらいいと、服が教えてくれる』
みたいなことを言っていた。彼女自身は、杉野学園で洋裁を習っていたこともあり、「自分でもの作りもしたい」という人だったようで、デザイナーに対して色んなアイデアを出してもいたそうだ。また、「身体」というもの対する興味を強く持っていたようで、だからその後、舞踏や演劇など、身体を使う芸術の方向へと軸足を移していくようになる。山本寛斎は、20年間山口小夜子と共に歩んできたそうだが(彼は「今でいうミュースだった」みたいな言い方をしていた)、ある時喧嘩のようになり、最後に、「お前がやろうとしている世界は、今まで僕とやってたことと真逆だから洗脳されるなよ」と言ったのがほぼ別れの言葉だと言っていた。しかしその後大分時間が経ってから、彼女の身体表現を目にする機会があった際に、「こんなレベルに達していたのか」と驚愕したと語っていた。「メーキャップの革命児」と紹介されていた、モロッコ在住のルタンスという人物も、彼女の凄まじい表現力を絶賛していた。
見ていて驚かされたのは、彼女が若い頃から見た目がほぼ変わらないことだろう。45歳でパリコレに復帰した際の映像も流れたが、20代の頃と全然変わらないように見えた。メイクや髪型などを「世間が思う山口小夜子」で統一しているからということももちろんあるとは思うが、もちろんそれだけではない、美しさを維持するための努力をしていたのだろうなと思う。
「世間が思う山口小夜子」と言えば、映画に登場した舞踏家が面白いことを言っていた。山口小夜子は時折、「小夜子さんはね」という言い方をしていたというのだ。これは要するに、「世間が思う山口小夜子像」を大切にし、それをどう壊さずに維持していくかという視点を常に持っていたからだろう、という話をしていた。そして、それはそれとして、「表現したい」という自身の欲求にも素直になり、人生の後半は「身体表現」や「斬新な朗読劇」などに邁進していくのである。
彼女は、「自分が良いと感じた人と何かやりたい」という意思が強かったようで、だから、有名無名に拘わらず、「ピンと来た人」と様々にコラボしては表現に携わっていたそうだ。結果として関わる人がアングラな世界にいることが多かったらしく、世の中の中心的なところから離れていくことになったのだろう。
ある人物が、「横浜だったと思うけど、とても小さな劇場でアングラな演劇をやっているところに、小夜子が1人で来ていることがあって驚いた」みたいに言っていた。その演劇自体はとてもつまらなかったとその人物は言っていたのだけど、しかしそういうところからも何かを得ようとしていた彼女の姿はとても印象的だったそうだ。
映画のラストは、「永遠の小夜子プロジェクト」と名付けた有志による撮影会が行われていた。もちろん、山口小夜子は亡くなっているわけで、彼女を撮影することはできない。そこで、モデルの松島花にオファーを出し、「小夜子メイク」を生み出した資生堂のメイクアップアーティストがメイクを担当し、その資生堂のポスターを見て彼女のファンになったというデザイナーの丸山敬太が服をセレクトし、下村一喜が写真を撮るという企画が行われた。
松島花は生前の山口小夜子と面識はなかったそうだが、その撮影はかなり真に迫ったものだったようで、撮影現場にいた者たちから思わず歓声が上がり、中には涙する者さえいた。確かに、素人目に見ても、まるでそこに山口小夜子がいるかのような完成度だったなと思う。
映画の最後に、松本貴子が山口小夜子から聞いたことがあるという言葉が紹介された。
『美しいことは、苦しいこと』
この言葉にどんな意味を込めたのかそれは分からないが、「モデルの仕事は孤独なんです」とインタビューの中で語っていた通り、やはり苦労も多い人生だったのだろうと思う。「今なお多くの謎に包まれている」と表現される山口小夜子の「人間っぽさ」みたいなものが、この映画から少しは感じ取れるように思う。
あと、どうでもいいことなのだけど、エンドロールの「製作委員会」の名前に、春風亭昇太の名前があったのが謎だった。どういう関係なんだろう。