【映画】「ぼくのエリ 200歳の少女」感想・レビュー・解説
なんか凄い映画だったな。なんか凄い映画だった。
映画を観ながら、映画の内容にまったくそぐわないことを考えていた。その話を書こう。
僕は、自分が「小児性愛者」じゃなくて良かった、と考えていた。
「自分の切なる欲望に沿うことが、社会では『犯罪』と呼ばれてしまう」という状況はとてもしんどい。別に僕は小児性愛の犯罪者を擁護したいわけではないし、法律があろうがなかろうが、あるいは本人の同意があろうがなかろうが、「小児とセックス的なことをする」のは許されないと考えている。
ただ一旦、そのような「社会との結節点」のことは忘れて、シンプルに「小児性愛者」視点で物事を考えてみよう。
それは、絶望的にしんどいだろう、と思う。
私たちが「異性とセックスをしたい」と考えるのと同じ自然さで、彼らは「小児とセックスをしたい」と感じてしまうのだろう。きっと彼らにしても、それが道徳的・倫理的にダメだということは理解できているはずだ。そうではない人もいるかもしれないが、むしろその方が幸せだと言えるかもしれない。自分の理性は正常に保たれたまま、欲望だけが「小児」を欲してしまう、というのは、想像するだけで恐ろしい。
この映画と「小児性愛者」の話を重ねるのは色んな意味で正しくないと思うが、この映画で描かれるエリも、まさに「自分の切なる欲望に沿うことが、社会では『犯罪』と呼ばれてしまう」存在だと言っていい。
「犯罪」というところまで話を持っていくと、現実世界で対応するものがなかなか見つけにくくなってしまうが、「自分の切なる欲望に沿うと、どんどん孤立してしまう」ぐらいの感覚は誰にでもあるのではないかと思う。以前、アニメやマンガが好きな女性から、「好きな作品について誰かと語り合いたくはない」みたいなことを言っていたことを思い出す。アニメでもマンガでも、「好きなポイント」が重なる可能性はかなり低いし、喋っていると「そこじゃないんだよなぁ」という感覚が強くなってしまう。だから、自分が好きなアニメやマンガの話は、そのアニメやマンガのことを知らない人に熱弁したい、と言っていた。
本当であれば「同じ作品を好きな人同士で話すこと」がベストであるように感じられるが、その欲望を突き詰めようとすると結局孤立してしまう、というわけだ。
僕の場合は、「他人と話すこと」に対して似たようなことを感じる。
僕は「話が合う」と感じるタイプが非常に狭い。世の中の大体の人に対して「話が合う」という感覚を抱けない。僕が、「メチャクチャ話が合う人とだけ話したい」という欲望を突き詰めるとすれば、ほとんど喋る相手がいなくなってしまう(それでも、今はそれなりに「話が合う」と感じる人が周りにいるので、非常に僥倖だと感じているが)。「話が合う」とは感じられない人と喋っていても、なかなか自分のテンションが上がらず、「これなら1人でいる方がマシだな」と感じてしまうことさえある。
「食」「仕事」「婚活」など、対象となるものはまったく異なるかもしれないが、似たような感覚を抱いてしまうことはあるのではないだろうか。
僕らのそれは、幸いなことに「欲望の追及」が「犯罪」には繋がらない。単純に「つまらない」「不満だ」という感覚が募っていくだけで、「社会的に『悪』とみなされる」可能性は低いだろう。
しかしそれは、たまたま運良くそうだっただけだ。
【「君は何者?」
「あなたと同じ」
「ぼくは殺さない」
「でも、殺したいと思ってるでしょ?相手を殺したいと思ってでも生き延びたいと」
「うん」】
社会は、一定のルールの範囲内で運営されるべきだし、そのルールから外れる者は何らかの形で断罪なり更生の道なりを示唆するしかない。しかし、それは「社会との結節点」での帰結であって、「ルールから外れること」そのものが「悪」かどうかは分からない。
それが、「生き延びるための切実な行動」であるなら、なおさらだ。
内容に入ろうと思います。
映画の冒頭は、限りなく関連性が無さそうな断片的な情報が散漫に登場する。
オスカー少年は、学校でいじめられている。いじめっ子から言われた言葉を、夜、ナイフ片手に繰り返すことで、どうにかその鬱屈を紹介しようとしている。そして彼は、殺人事件の新聞記事をスクラップしている。
ある男が、人の意識を失わせるガスをバッグに入れ、人気のない夜道に立っている。通りかかった男性に時間を聞くフリをしながらそのガスを嗅がせ、木に掛けたロープで逆さ吊りにする。そして首元を切り、流れ出る鮮血をバケツに溜めていくのだ。しかしそこにどこかの飼い犬が近づき、見つかる危険を感じた男はその場を立ち去る。
レストランで談笑している、常連客らしい集団。新しく町に引っ越してきたらしい男性が1人で食事をしているのを見かけ、一緒に飲もうと声を掛けるが、すげなく断られる。散会となり、帰路につく面々だが、その内の1人がくらい夜道で「助けて」という少女の声を聞く。男は助けてあげようと少女に近づくが、その直後悲鳴を上げることになる。
オスカーは自宅アパートに併設する中庭で遊んでいる。すると、ジャングルジムに女の子がいる。見たことのない子だ。雪深い真冬なのに薄着で、また、オスカーは彼女に「君臭うよ」と声を掛ける。ルービックキューブを貸してあげて、別れた。どうやら部屋は、オスカーの隣だそうだ。
授業中。オスカーは恐らく図書館から借りてきたのだろう分厚い本から何かを書き写している。モールス信号だ。
というような話です。
エリという名の少女がヴァンパイアであることは、恐らくかなり知られた事実だと思うので、書いてしまっていいだろう。邦題の「200歳の少女」という副題からもそれが連想できるだろう。タイトルの話で言えば、英題が「Let the Right One In」だった。恐らく、フィンランド語のタイトルをそのまま英訳したのではないかと思う。グーグル翻訳に突っ込むと、「正しいものを入れましょう」と翻訳された。映画を観れば、何を指しているのか理解できるだろう。ってか、凄いタイトルだな。
と思ったんだけど、ちょっと違うようだ。僕は「正しいものを入れましょう」を、「人間が食べるものではなく、血を取り込みましょう」という意味で解釈したのだが、原題を正しく捉えると「正しき者を招き入れよ」となるそうだ。こう訳されると、映画のまた別の場面が浮かぶ。「入っていいって言って」とエリが口にする場面の描写が観ている時には理解できなかったが、調べてみると、元々の「吸血鬼」の設定として、「人間に許可されないと家屋に入れない」というのがあるそうだ。知らなかった。
映画全体は当然、オスカーとエリの関係がどう展開していくのかに焦点が当たるし、その物語は非常に興味深い。ただ僕は、エリがある場面で「パパ」と呼んでいた人物との関係がずっと気になっていた。
かなり早い段階から僕は、「この男はエリの幼なじみ、あるいは恋人的存在だろう」と考えていた。そもそも「親子のはずがない」と考えていたのだ。その確信が持てたのは、男が
【今夜はあの少年に会わないでくれ。頼む】
と口にしたシーン。その後の展開を踏まえると、彼は「何らかの予感を抱いており、自分の身の振り方に覚悟をしている」のだと伝わる場面だ。恐らく、「死」が避けられないものだと考えていたのだと思う。
そしてそんな場面で、「少年に会わないでくれ」と口にするのだ。これはシンプルに「嫉妬」だと考えるべきだと思う。そして嫉妬だとするなら、この男と少女は、年齢がまったく合わないが、元々は同い年だったと考えるべきなのだと思う。
しかし、そういうイメージを最初から持ってはいたのだが、「どんな理屈でそれが成立するのか」はちょっと分かっていなかった。しかしこの映画では、親切にそれを示唆する場面を用意してくれる。レストランで談笑していたメンバーの1人である女性の描写がそれだ。
また、エリが「12歳だよ、もうずっと昔から」と言っていたことを考え合わせると、恐らく、
<エリは12歳の頃にヴァンパイアに噛まれ、しかし一命を取り留めた。ただしそのせいでヴァンパイアになり、年を取らない身体になってしまった。そして、ヴァンパイアに噛まれた12歳の頃から親しくしていた男の子と、ずっと一緒に生きている>
という設定なのだろうと思う。この映画は原作となる小説があるらしいが、そちらではこの男の物語もきちんと描かれているのだろうか?オスカーとエリの物語ももちろん面白いのだが、個人的にはこの男とエリの物語がどうだったのか非常に気になってしまった。
と思ったのだが、そういえば副題に「200歳」とあるな。僕の仮説だと、男の年齢が70歳だとしても、エリがヴァンパイアになってから58年しか経っていないことになる。となるとエリは、「定期的に『人生を共に歩む人間』を取り替えている」ということになるのか。その新たな候補がオスカーというわけだ。なるほど。
【ここを去って生き延びるか。
留まって死を迎えるか。】
こう書かれた紙に、「ぼくのエリ」という表記がある。これもきっと、その男が書いたものだろう。
エリが生き延びるということは、その周辺で不審死が多発するということだから、1つところに長く留まることは難しい。流浪の人生を歩むしかないというわけだ。
「愛」という言葉で片付けていいのか分からない関係性ではあるが、弱さと中性的な魅力を兼ね備えた少年と、あらゆる意味で「異端」としか呼びようのない少女の邂逅は、展開の読めなさも含めてザワザワさせる強さがあった。
なんか凄い映画だったな。
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