【映画】「ジョイランド わたしの願い」感想・レビュー・解説
なかなか興味深い映画だった。公式HPによると、本作は本国パキスタンで上映禁止とされたが、マララ・ユスフザイらの支援もあって上映に至ったが、唯一、監督の出身であり本作の舞台である地では今も上映禁止が継続しているそうだ。僕らからすれば、扱われているテーマは「ごく普通のもの」でしかないが、未だ家父長制がかなり厳しく残り、さらに、恐らくLGBTQなどへの理解も低いのだろうパキスタンでは、「受け入れがたい」という反応になる作品なのだと思う。
本作は、とにかくひたすら「家族」の物語であり、舞台設定も人間関係も実にミニマムである。ただ、「昔の日本」みたいな厳しい家父長制が今も続き、また「女性は家で家事をして当然」「男は働いて家族を養って当然」のような、先進国と言われる国の価値観では「遅れている」と感じられるような感覚が当たり前に蔓延る環境であり、そのような「実に窮屈な世界」における人間関係のややこしさを描き出している。
舞台となるのは3世代9人が暮らす家族。主人公は、次男のハイダルだ。彼は、実に2年間も働いていない。家にいて、兄・サリームの娘たちの相手をしたり、兄嫁のヌチと共に家中の家事を担っている。ハイダルの妻・ムムターズはハイダルの代わりに美容部員として働いており、活き活きしている。仕事は彼女にとっての生きがいである。
ヌチは4人目の子どもを妊娠中で、まさに出産するところから物語が始まる。検査では男の子だと言われていたので喜んでいたのだが、生まれてきたのはまたしても女の子。ムムターズは夫に「5人目に挑むのかな?」と言うなど、とにかく男児の誕生が望まれている。
そういうハイダルとムムターズはと言うと、特に子どもを持つつもりはないようだ。ハイダルの希望はよく分からないが、ムムターズは恐らく仕事を続けたい人であり、「子育てで仕事を中断したくない」と考えているのではないかと思う。
そんなわけで、「働いてお金を入れる妻・ムムターズ」と「9人家族の家事・子育てを担う夫・ハイダル」というバランスはとても上手く行っており、本人たちにはたぶん不満はなかったはずである。
しかし、父親はそうではなかった。年を取り足腰が悪くなったのだろう、車椅子で生活をする父親は、ハイダル夫妻にも子どもが生まれることを望んでいる。その背景には、兄夫婦が女児しか産んでいないことも関係しているだろう。家としてはやはり、男児は待望の存在なのである。
さて、父親の希望を除けば実にバランスの取れた日々に大きな変化が訪れる。ハイダルに仕事が決まったのだ。しかしそれは「劇場でのダンサー」の仕事だった。友人から無理やりオーディションに呼ばれ、騙し討ちのように舞台に上がらされたことに怒り心頭だったハイダルだが、ビバの登場で一変する。今回集められたダンサーは、ビバのバックダンサーの候補であり、そしてハイダルは、そんなビバに一目惚れしたのだ。ビバはどうやらトランスジェンダーで、「女性なのに身体は男」なのだが、ビバは女性以上に女性らしい見た目で周囲を魅了する。
さて、これで色々と問題が浮上することになった。そもそも、「劇場で働いている」というだけで外聞が悪い。ハイダルは父親には「支配人だ」と嘘をついたのだが、それでも父親は「近所には言うな」と家族に厳命していた。さらに、ハイダルが働くということは、家事の担い手がヌチだけになるということであり、4人の子育てと9人分の食事の用意を1人でこなすのはさすがに不可能である。
そのため、父親の命により、ムムターズは仕事を辞めざるを得なくなってしまう。それはムムターズにとっては辛い決断であり、ハイダルとしては妻をそんな状況に追いやりたくはなかったのだが、しかし、ビバへの恋心の方が勝っていたのである……。
というような話です。
物語は、「ハイダルとビバの恋」を除けば、ほぼすべてが家族の中で収まっており、「ハイダルが働きに出る」という、父親としては喜ばしい出来事を発端に、玉突き事故のように変転していく人間関係が描かれていく。
本作で描かれる「問題」は正直、父親がいなければ発生しなかったと言っていいだろう。ハイダルが働きに出るきっかけを作った友人は、「こいつは小便も親父の許可がないと出来ない」と仲間内に言うぐらいハイダルと父親の関係を知っており、そのため、父親の願いを叶えようとお節介を焼いているのだ。そして、そんなことがなければ、ハイダルがビバに恋をすることもなく、ムムターズが仕事を辞めなければならないこともなかったのだ。
そして、はっきりとは描かれないものの、映画全体のスタンスとしては、「そんなのおかしいよね?」という見え方になっている。これが、本作が「上映禁止」になった理由だろう。
僕は普段から、「それが『犯罪』ではない限り、個人の自由が何らかの理由によって制約されるべきではない」と考えている。ただ、実感としてはよく分からないが、日本以外の多くの国はたぶんそうじゃないように思う。というのも「宗教」があるからだ。つまり大体の国では、「それが『犯罪』『宗教が定めること』ではない限り、個人の自由が何らかの理由によって制約されるべきではない」という感じなのではないかと思う。
そして難しいのは、「家族関係」や「性自認」が「宗教が定めること」に含まれ得るということだろう。この辺りのことは正直、無宗教(を自認している)日本人にはなかなか実感が難しいように思う。
さて、僕は最近(ここ半年以内)ぐらいに知ったのだが、パキスタンという国は元々インドだったそうだ。そんなことも知らなかった自分にビックリである。元々「インド帝国」をイギリスが支配していたのだが、独立運動を弱体化させるためだとかで、「ヒンドゥー教のインド」と「イスラム教のパキスタン」に分離されたそうだ。少し前にNHKで「毎夕行われている、インド・パキスタン国境での『国境閉鎖の儀式』」の映像を観て、そのことを知った。
まあそんなわけで、パキスタンはイスラム教の国なのだそうだ。そしてイスラム教に対しては「女性の権利が軽視されている」という印象が強くあるので、それで、本作で描かれるような「女性を抑圧する父親」みたいな感じになるのだろう。
さて、個人的に驚いたのは、「ヒジュラー」という単語である。これはビバについて会話するムムターズとヌチの会話に出てきたもので、「第3の性」という単語の上に小さく表示されていた。ネットで調べてみると、男性でも女性でもない性のことを指す単語で、「両性具有者」みたいな訳になるという。
何に驚いたかというと、まずそもそも「ヒジュラー」という形で昔から概念として「男でも女でもない性」が認識されていたということだ。日本語の場合、今でこそ「LGBTQ」や「トランスジェンダー」などの外来語で表現できるが、日本古来の単語ではどう表現するのだろう?何かそれに当てはまる単語は存在したかもしれないが、少なくともその単語は「現代日本」では当たり前には使われていない。
しかしパキスタンでは、ビバがトランスジェンダーだと知るや、すぐに「ヒジュラー」という単語が出てくるぐらい、当たり前にその概念が認識されている。「ヒジュラー」が社会的にどのように扱われているのか、本作を観るだけでは正直よく分からなかったが、「存在として認識され、概念を表す単語が存在し、それが今でも使われている」という点にまず驚かされた。
そしてもう1つ。作中で「ヒジュラー」に対する世間の反応が描かれる場面が一度だけあるのだが、この場面が僕にはよく理解できなかった。ビバが電車に乗っている時に、「ここは女性専用車両だから移って」と隣に座っていた女性にしてきされるシーンがあるのだが、どうしてビバが「ヒジュラー」だと分かったのか、その説明はない。ビバは、見た目は完全に女性であり、喋っても男性だとは分からない。だから外見から「ビバがヒジュラーである」と判断できる要素は存在しないと思うのだ。にも拘らず、その場でたまたま会っただけであるはずの電車に乗っていた女性が、黙って座っているビバを見て「あなた男性でしょ?」と指摘するのだ。個人的には、「えっ?」という感じだった。
まあ、ビバは「劇場で踊るダンサー」であり、知名度を上げるためにSNSなんかもやってるだろうし、その中で「自分はヒジュラーだ」と言っているのかもしれない。というか、そうとでも考えないとなかなか理解できないシーンなのだが、実際のところはどうなのだろう。
さて、まあそんなわけで、パキスタンでは「ヒジュラー」という形で(恐らく)古くからトランスジェンダー的な存在(「ヒジュラー」と「トランスジェンダー」は決してイコールではないようなので)が存在し、”区別”されてきたわけだが、日本人としてはその扱われ方がよく分からず、作品の捉え方が少し難しかった部分はある。そもそも本作では、「ビバがトランスジェンダーである」という事実はムムターズとヌチの会話によって初めて観客に伝えられる。ハイダルとビバの関係の中では、そんな話は全然出てこないのだ。だから「ビバがトランスジェンダーだとハイダルがいつ知ったのか」も分からないし、「そのことに対してハイダルが葛藤しなかったのか」もよく分からない。このあまりの描写のされなさを踏まえれば、「ヒジュラーは当たり前の存在で、ごく自然に受け入れられている」と考えていいのかもしれないが、よく分からない。
さて、タイトルの「ジョイランド」は「遊園地」のことのようだ。作中では一度、遊園地のシーンが描かれる。ヌチと家事に専念することになったムムターズが、2人で遊園地に行くのである。しかしそのためには、義父に許可を取らなければならない。しかも、「家事を担う女2人」がいなくなる代わりに、誰か家にいてもらう必要があるのだ(まあ、父親は車椅子生活なので、家父長制関係なく、父親を一人にしておくわけにはいかないという理由もあるとは思うが)。この時は近所のオバサン(だと思う)に家のことを任せることが出来、2人は遊園地へ行くことが許されたのである。しかしここから、まさかあんな展開になるとはという感じもした。これもまた、「古い価値観」をベースにした「家族のややこしさ」という感じで、難しいものだなと思う。
さて、本作で描かれるような「家族のややこしさ」は、今も日本に残っていることだろう。都会で一人暮らしをしているとなかなか実感する機会もないが、地方なんかではまだまだ「コミュニティの謎ルール」や「旧来の家族観」みたいなものが支配的なところもあると思う。僕は昔から「家族的なもの」が全般的に苦手だったので、極力関わらないように生きてきたからあまり関係ないと思えるが、「他人事ではない」と思いながら観る人も結構いるんじゃないかと思う。
もちろん、個人がすべての希望を押し出していけばどこかで軋轢が生まれるし、回るものも回らなくはなるが、そういう話は、本作で描かれる父親のあり方とは関係ないだろう。こんな「家父長制」は全然要らない価値観であり、それが「宗教」と結びついているのであればなかなか難しいが、恐らくパキスタンの若い世代も「やってらんねーよ」みたいに感じているのではないか。
そして全世界的にそんな風に感じる人が多いからこそ、本作は世界中で絶賛され、パキスタン映画として初めてカンヌ国際映画祭で上映され受賞、さらにパキスタン映画として初めて米アカデミー賞国際長編映画賞の候補になったのだろう。派手さのない物語ではあるが、多くの人が持つ「個人的な悩み」に突き刺さる作品なのだろうし、それはきっと日本人でも変わらないのだと思う。
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