【映画】「由宇子の天秤」感想・レビュー・解説
【正論が最善とは限りません】
「正しさ」というものが、「誰視点で見るか」で変わる、なんてことは当たり前の話だ。しかし、この最低限の理解さえ、すべての他人と共有できるわけでは決してない。
世の中には、「『絶対的な正しさ』が存在する」と思っている人もいるし、「自分はその『絶対的な正しさ』の側にいる」と信じている人もいる。
しかし僕は、そういう人を決して否定したいわけではない。「絶対的な正しさ」の存在を信じなければ自分を支えられないという人だっていると思うからだ。話は飛躍するかもしれないが、「宗教」というのは元々、そういう人たちの受け皿として機能していたのだろうし、今だって大差ないだろう。
【俺たちが繋いだもんが真実なんだよ】
ドキュメンタリー映画のプロデューサーがこんな風に言う場面がある。単純に捉えれば「映像の繋ぎ方次第で真実などどうとでも作れる」と言っている発言であり、唾棄すべき物言いだ。
しかし僕は、こういう言い方をする人のことも否定したいわけではない。というのは、このような考え方は、「私たち受け手が『分かりやすいもの』を欲している」ということの裏返しでしかないからだ。吐き捨てた唾が、自分の元に返ってくる、というわけだ。
僕自身はだから、「分かりにくいもの」に常に手を伸ばすように意識している。本や映画を選ぶ際は、他人の評価を見ない。自分にとってそれが「なんだか分からないもの」である状態のまま触れるようにしている。
強くそういう意識を持っていないと、僕らは常に「誰かのオススメ」や「誰かの非難」に左右されてしまう時代に生きているし、自分が誰かを左右しかねない日常に立っている。
【たった1つの報道で、おかしいでしょう?】
報道に限らない。
【司法だけじゃない。社会が許さないの】
という時の「社会」には、僕たち一人ひとりが含まれている。
発信する人間が増えれば増えるほど、「正しさ」も増える。視点の数だけ、「正しさ」は存在するからだ。そして、増えすぎた「正しさ」は対立を引き起こす。「絶対的な正しさ」にしがみついていないと人生から振り落とされてしまうと恐怖する人間が、自分とは相容れない「正しさ」を持つ人間を否定する。
否定することで、自分の「正しさ」がより正しくなる気がするのかもしれない。
僕は物理学が好きで、「量子力学」の話など特に大好きだ。その「量子力学」の結論の一つに、「粒子の位置は確率でしか分からない」というものがある。これまで科学は、「方程式を解くことで、物質の未来の位置や速度を正確に予測する」ことを実現してきた。しかし「量子力学」ではそれは不可能だ。どれだけ正確に方程式を解こうが、未来の粒子の位置は確率でしか分からない。
これは、科学の世界では異常な結論であり、だからこそ「量子力学」という分野の異端さが際立つ。
しかし、「確率でしか分からない」というのは、僕たちが生きている社会にまさに適用される話だろう。
「絶対的な正しさ」などどこにもない。仮にそんなものが存在するとしても、見る視点(人物)によって受け取り方が変わるのだから、実質的には存在しないと言っていい。
もしも、「100%副作用が起こらず、100%発症を予防するワクチン」が生み出され、科学的にその確かさが保証されたとしても(まあそんなことは起こり得ないが、思考実験と捉えてほしい)、そのワクチンを信じない人は一定数必ず出てくる。
「正しさ」は常に主観的にしか判断されないのだから、客観的な判断である「絶対的な正しさ」は存在し得ないのだ。
だからこそ僕たちは、「より正しい確率の高い真実はどれか?」と問うことしかできない。
この映画の登場人物たちはそれぞれ、異なる形でこの問いと向き合わされる。
由宇子はドキュメンタリー監督であり、3年前に起こった女子高生の自殺を追っている。「誰が加害者なのか」について疑問が残る事件であり、由宇子は「被害者家族」と「加害者とされている人物の家族」にアプローチし、事件の背景に何が起こったのか探ろうとしている。
そしてその一方で、まったく別の方面から「正しさ」について問われる暴風が吹き込んできて、由宇子はよろめきそうになりながら、真実の追及と隠蔽を同時並行で行おうとする。
「加害者とされている人物の家族」である母親と姉は、教師であり自殺した息子(弟)の無念を晴らすために、由宇子の取材を受ける決断をする。報道によって酷い扱いを受け、何度も引っ越しを余儀なくされている2人は、「誰にも知られない穏やかな生活」と「謂れのない罪で糾弾される息子(弟)の無念を晴らす」という葛藤の間で揺れる。
由宇子の父は、長年学習塾を経営し、生徒から慕われる存在だ。由宇子自身もこの塾で学び、今は講師として父の手伝いをしている。由宇子の父親はある状況を前にし、彼なりの「正しさ」を貫こうと考える。しかし、由宇子の父親が考える「正しさ」は、本当に誰かを救う結果を導くのか分からない。
由宇子の父が経営する塾に通うメイは、父子家庭であり、学歴がないのだろう父親の厳しい経済状況の下で厳しい生活を送っている。「普通に就職して普通に給料をもらいたい」と覇気のない夢を語るしかない彼女は、この物語における「正しさ」の中心にいると言っていい。彼女の言動によって、誰かにとっての「正しさ」が揺らいでいく。
メイの父親は、ひとつ屋根の下で暮らしながら、娘とほとんどコミュニケーションが取れていない。お互いに理解しようという気持ちが薄い関係だったが、あるきっかけから由宇子が間に入るようになったことで、父娘の関係は変わっていく。この物語においては「正しさ」の葛藤に最も直面しない人物ではあるが、しかし映画のラストはこの父親が否応なしに「正しさ」と向き合わされることになる。
ただの観客として、彼らの言動から「誰が正しいか」を判断することは無意味だろう。自分がどの立場に置かれた時に、登場人物と違う決断をするかどうかが最も重要な問いだ。
そしてそう考えた時、誰もが「正しくはない」かもしれないが、しかし誰もが「間違っているわけでもない」と言えると僕は思う。具体的な状況が描かれないから判断できない場面もあるが、具体的に描かれている描写に関して言えば、自分がそういう状況に置かれた時に、違う判断が出来る自信はない。
そしてこの映画は、「僕たちが生きている社会は、そんな世界なんだ」ということを描き出しているのだと僕は思う。
様々な「正しさ」があって、誰もが自分なりの「正しさ」の中で生きている。他人の「正しさ」を非難することは簡単だ。僕は、今の世の中は「正論が強すぎる」と感じている。「正論を言えば反論されない」というような議論が多すぎて、その風潮のせいで全員がちょっとずつ損していると僕は思っている。そして、どんな「正しさ」にだって、「正論」から外れている部分を見つけ出すことはできるのだから、その部分を誇張して批判すれば、簡単に「正しさ」に反対することができる。
SNSは、小さな声も増幅することが可能な、上手く使えば素晴らしいシステムだと僕は思っているけれど、それはつまり、どんなくだらない意見も過剰に誇張して発信できる世の中だということを意味してもいる。そして、自分が思う「絶対的な正しさ」にしがみつきたい人ほど、SNSのそんな機能を最大限に活用し、「他人の『正しさ』の僅かな綻びを『正論』で叩き潰す」という意義の薄い活動に勤しんでいる。
そういう時代背景を、僕たちは無視することができないし、そういう社会の中で生きている以上、この映画で描かれているような展開を回避することは難しくなる。
もしも、「正しさ」における「間違い」がもう少し許容されるなら、つまり、「多少間違いはあるけど概ね正しいよね」という判断が許されていると誰もが実感できる社会であれば、この映画のような状況は避けられるだろう。
今の世の中では、「『間違い』が含まれていること」イコール「それに関わるすべてが間違い」と判断されてしまう。だからこそ、それが些細なものであったとしても(この映画で描かれるのは「些細」などと言えるものではもちろんないのだが)「間違い」を隠蔽しなければならない、という発想になってしまう。
そしてそれによって、ちょっとずつみんなが窮屈になってしまう。
「間違い」を見逃せ、というのではない。その「間違い」に見合った適切な「償い」や「罰」が存在すべきだ、ということだ。現在は、「間違い」に対する「償い」や「罰」があまりに過剰であり、一度の「間違い」が人生の致命傷になる。
そんな社会でいいのか?
と、この映画に問われている気がした。