【映画】「クラブゼロ」感想・レビュー・解説

いやー、これは実に現代的で、激しく挑発的な、もの凄く興味深い映画だった。

さて、本作で描かれるのは「意識的な食事」である。これは平たく言えば「少食/拒食」ことを意味する。つまり、「健康など様々な目的のために『少食/拒食』を実践する」という話なのだ。

もう少し物語の設定に触れておくことにしよう。

名門校に、ノヴァクという栄養学の女性教師が新たに赴任してきた。彼女は、保護者会からの推薦によってこの学校にやってくることになった。親は子供たちに「栄養学」について学ばせたいと考えているのだ。ノヴァク先生を見つけたのは生徒の親で、彼はネットでその存在を知ったそうだ。

彼女の初回の授業では、集まった生徒たちに「どうしてこの授業を取ったのか?」という動機を質問する。「ダイエットに興味がある」「工業的な食料生産が地球環境に悪い」と言った真面目なものから、「奨学金のため」というものまで様々だが、ともかく彼らは、ノヴァク先生の言う「意識的な食事」を実践することにした。

それは「これから口に入れようと思っている食べ物に意識を集中させ、『食べること』を経ずにその食べ物から何かを摂取する」みたいなイメージである。生徒たちは、小さく切った食べ物をフォークに刺し、それに意識を集中させてから食べる。そんな風にして、食べる量を減らしていく。

「ついていけない」と脱落する者も出てくる一方で、ノヴァク先生からさらなる高みを目指そうと声を掛けられ、その気になる生徒も出てくる。「さらなる高み」とはつまり、「一切何も食べないこと」である。ノヴァク先生曰く、世界には公にはされていないが「食べないことを推奨する団体」が存在するというのだ。

その名も、「クラブゼロ」。

というような話である。

さて、扱われているテーマは「食べること/食べないこと」なのだが、この映画の本質はそこにはないと僕は思う。より重要なのは、「『何を信じるか』の選択をどのように行うのか?」という問いかけである。

本作を観ても正直、ノヴァク先生の動機はよく分からない。時折挟み込まれる描写から、「何らかの使命を帯びている」という自覚の元で、この「意識的な食事」を広めているようだが、その背景ははっきりとは分からない。いずれにしても、「狂信的な人物」と言っていいだろうと思う。

そして彼女が生徒たちを「引きずり込んでいく過程」はそのまま、人々が「結婚詐欺」「闇バイト」「霊感商法」などに騙される過程そのものに見えた。

ノヴァク先生が生徒に言った言葉の中で、特に印象的だったものが2つある。

1つは、

『あなたたちの周りの人は、私たちの信念を恐らく認めない。なぜなら、彼らの真実が脅かされるのが怖いからだ。』

である。

ノヴァク先生がどんな経歴を歩んでこの高校にやってくることになったのかは分からないが、まず間違いなく、彼女のこれまでの人生において「否定・拒絶・無理解」みたいな状況に置かれたことが多々あるのだと思う。彼女は「『食べないこと』の良さ」を信じているが、しかし世間がそれを認めないことも理解している。そして、自身の考えを広める上で最大の障害になるのが「世間の常識」であることを理解しているのである。

だから生徒に先回りで、「あなたの周りの人は間違いなくあなたに反対するけど、それはあなたのためを思ってではなく、自分の信念が崩されるのが怖いだけなんだ」と伝えるのである。こうすることで、「食べないこと」に対して家族から反対されても、「先生の言った通りだった」「この人たちは、『真実』を理解できない残念な人たちなんだ」みたいに思わせることができる。

そしてもう1つは、

『明らかに効果があるのに、科学的な検証なんて必要かしら?』

である。これは、生徒の1人から、「『食べなくても健康的に生きられる』ことに、科学的な根拠はあるんですか?」と問われた際の返答である。

この時点で生徒たちは「少食」をかなり実践しており、そしてその効果を体感していた。まあ、それはさして不思議なことではないだろう。確かに現代人は「食べ過ぎ」の傾向があるし、添加物や化学物質などが多く使われている食事は避けた方がいい。だから、「少食」によって身体に良い変化が生まれる可能性は十分にあるとは思う(短期間であれば)。

そしてそういうタイミングで、先のようなことを口にするのだ。なかなか上手い。確かに、現に効果を感じているタイミンでそんな風に言われたら、「確かに、科学的な根拠なんかより、私の実感の方が大事かも」と感じる人が出てきてもおかしくはないだろう。

ノヴァク先生は生徒たちに、「『食べなければ死んでしまう』というのは、社会が植え付けた洗脳だ」と言うのだが、実際のところは、ノヴァク先生が生徒たちを洗脳していると捉えるのが正しいだろう。「洗脳」には色んな手法があると思うが、「周囲から上手く孤立させること」や「常識や科学よりも『教祖』の主張が正しいと思い込ませる」みたいなことは必須の要件だろうし、まさにノヴァク先生はそういうことを実践している。

そして、何よりも重要なことは、今の時代はこういうことが容易に出来てしまう、ということだ。

何でもかんでもSNSのせいにするのはよくない、と、SNSを悪く書く時には毎回そんな風に言っているが、やはり「SNS」と「洗脳」は相性がとても良いと思う。SNSには、それがどれだけ倫理的にマズいことであったとしても、自分と同じような価値観・趣味趣向を持つ人を見つけることが出来るし、そういう人とクローズドな関係性を築きやすい。また探せば、「自分にとって都合の良い主張をしている人」も見つけられるし、そういう人の主張を「何かを信じる際の根拠」にすることがあまりにも簡単に出来てしまう。

例えば、僕はコロナワクチンの有効性を信じているし、実際に接種もしたが、世の中にはそれを疑っている人もたくさんいる。陰謀論的な主張をしている人は論外だが、確かに僕も、「長期的な影響力」については何とも言えない部分があるとは思っているし、また、現に「ワクチン接種によるものと疑われる身体の不調」も報告されている。だから「打たない」と判断をする人がいても全然いいと思っているし、50年後とかに「やっぱりコロナワクチンは身体に悪いものでした」なんてことが判明する可能性もあるだろう。

それでも僕は、「コロナワクチンを信じる」立場を取る。その理由は、「科学のシステムを信じているから」だ。科学ももちろん間違う可能性はあるし、実際に数多くの間違いをしてきたが、しかし、実験データの精度や論文発表の仕組みなど、様々な形で「間違いが表に出にくいシステム」になっているとは思うし、また、「間違いが含まれていた場合に、それが明らかにされる可能性」も、「科学が絡まない状況」よりも圧倒的に高いと考えている。決して完璧なシステムではないが、「最も有用で、最も信じるに値するシステム」だとは思う。

しかしここで問題になるのが、「『科学的』とはどういうことか?」ということだ。コロナワクチンを否定する人たちもたぶん、「科学的に考えて否定している」と自覚しているだろう。もちろん、それが正しい場合もある。しかし中には、「『科学的』の意味を履き違えている人」もいるはずだ。

例えばコロナワクチンに関する主張で時々見かけたのが、「ある1人の科学者、あるいは、ある1人の医師がこのように主張している、だからコロナワクチンは危険なんだ」みたいな主張である。それは、全然「科学的」ではない。それは単に、「個人の意見」である。

ただ、「じゃあ僕は一体何を以って『科学的』と考えているのか?」と聞かれると、なかなか難しい。僕だって別に、研究者でもなければ、誰かが発表した論文を読んでいるわけでもない。ただ単に、「公的な機関が公式に発表した情報は、『科学というシステム』を通り抜けてきた結論なのだろう」と推定しているだけだ。まあ、その判断が間違っているとは思わないが、僕にしたところで、他人にとやかく言えるほど「科学的」について明確な何かを持っているわけではない。

さて、大分話が脱線したような気もするが、ともかく、今の時代は「ノヴァク先生みたいな人が『信者』を集めやすい環境にある」と言っていいと思う。本作にはSNSは登場せず、それ故に「ホラー的な雰囲気」を醸し出しているわけだが、描かれていることが「SNS上で繰り広げられていること」だと思えば、不思議でも何でもない。まさに、僕らの日常に転がっている「当たり前」と言っていいんじゃないかと思う。

だから全然他人事ではない。

本作は、基本的に「生徒目線」で進んでいくが、親からしたら恐怖でしかないだろう。自分の子供が、突然よく分からない理由で「何も食べなくなる」のだ。しかも、ノヴァク先生が上手いのは「意識的な食事」という名前を付けていることだ。生徒たちは親から度々、「どうして食べないんだ?」と言われるのだが、生徒たちは「『食べてない』んじゃない。『意識的に食べてる』んだ」ということになる。生徒たちには「食べている」という意識があるわけで、だから親からの「どうして食べないんだ?」という問いは届かない。

本当なら、子供たちの「食べている」という認識を認めた上で話を進めていくべきだと思うのだけど、残念ながらそうはならない。やはりそこには、「ノヴァク先生が悪い」という意識も絡んでいるだろう。子供が自発的にそうしているわけではなく、扇動した人物がいるという事実が、子供との歩み寄り方を間違わせる要因になっているのだと思う。

そもそもだが、ノヴァク先生の「意識的な食事」に熱心に取り組む者たちには、「食べないこと」に突き進んでいく背景的な要素を持っている。それぞれあまり詳しく触れられないのだが、若くして糖尿病になっているフレッド、食べたものを吐き出してしまう拒食症のエルサ、トランポリンのために体重管理を親から強いれられているラグナの3人は特に、「食べないこと」に対する動機が元々存在していたと言っていいだろう。そしてそれらが「親との関係性」とも緩く結びついているが故に、余計にややこしくなるという悪循環を生み出してもいるのである。

さて、まあそんなわけで、本作は「食べること/食べないこと」という直接的なテーマを超えた示唆に富んだ作品なのだが、それはそれとしてやはり、「食」に関する部分も気にはなる。特に僕はたまたま、昨日、『フード・インク ポスト・コロナ』というドキュメンタリー映画を観ていた。工業的な食料生産がいかに全世界的に悪影響を及ぼしているかという実状をカメラに収めた作品で、だから生徒たちが「少食」と「環境問題」を結びつけるのも一理あるのだ。

生徒の1人がこんなことを言っていたのが印象的だった。

『食べずに生きられる者は、商業的・社会的に自由でいられる。こうして私たちは、資本主義を脅かしているのだ』

まあ、概念的には確かにそうかもしれないが、本作で描かれる「ノヴァク先生プラス生徒数人」の規模感では、やはり「絵に描いた餅」としか言いようがない。ただ、「食べずに生きられる者は、商業的・社会的に自由でいられる」という表現には、ちょっと「なるほど」と感じさせられてしまった。確かにその通りである。食べずに済むのなら「飢餓」も存在しないし、また、「食べない者」が増えれば増えるほど、「食」を扱う企業はシュリンクしていき、それによって、経済格差的なものも縮まったりするだろう。先述した映画『フード・インク』では、「多国籍食品企業が貧しい者たちを搾取し、食い物にしている」みたいな現実が映し出されるわけだが、そういう世界も無くなっていくことだろう。

まあ、「食べずに生きられる者」という前提がそもそも間違っているので、そんな展開になることもないわけだが、ただ、遺伝子操作などによって「食べる量を減らしても生きられる人間」みたいに”進化”する可能性はあると思う。例えば地球温暖化などで地球に住めないとなれば、地球以外の惑星に移住するしかないが、そうなれば、長い惑星間航行が必須である。それには「食べる量が少ない」方が有利だし、だからそういう研究にお金が注ぎ込まれる可能性も決してゼロではないと思う。

まあ、そこまで考えると完全にSFの世界ではあるが、しかし決してあり得ない話ではないだろう。現代ではまだ不可能ではあるものの、本作で描かれている「食べないこと」が社会的に当然のように議論される世の中がやってくる可能性はゼロではないし、また、この記事で散々書いてきたように、本作は「『何を信じるか』の選択をどのように行うのか?」に関する思考を強く刺激する。実に興味深い作品だった。

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長江貴士
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