【映画】「その鼓動に耳をあてよ」感想・レビュー・解説
ホントに、シンプルな感想としては、「とにかく頭が下がる」である。「究極の社会奉仕」「究極の人相手の仕事」という表現が作中に出てきたが、まさにその通りだ。
映画で扱われているのは、「断らない救急」を1948年の開院当初から掲げ続ける名古屋掖済会病院のER(救命救急センター)である。彼らはとにかく、救急搬送の患者を断らない。24時間365日受け付けているのは当然と言えるかもしれないが、診療代の回収が出来なさそうな人も受け入れるし、コロナ禍で病床がパンパンという状態でもギリギリのギリギリまで受け入れる。地域でも「掖済会は断らない」が浸透しているのだろう、救急車の救急隊は基本的にまず他の病院を当たり、他がダメだった場合に最後に掖済会を頼るみたいにしているようだ。掖済会でも「最後の砦」を自認しており、電話口で救急隊に「これ何件目?」と尋ねるシーンが多くあった。掖済会の方がかなり逼迫している場合、もし電話を掛けている病院が2~3件目とかであるなら「一旦他を当たってみてくれ」と返すのだ。それでもし、他がどこも受けてくれないのなら、最終的に掖済会が引き受けるつもりでいるのである。
そんな、とにかく「断らない」ことをモットーに掲げたERをひたすらに映し出すのが本作である。
さて、書きたいことは色々とあるのだが、本作を観て僕が最も印象深かったのは、恐らく撮影班が意識して収めようとは思っていなかっただろう要素だ。それが「ER内の心理的安全性」である。要するに「働く環境の雰囲気がとても良かった」ということだ。
一応、先に書いておくが、掖済会に限らず、「救急」の勤務環境はなかなかキツい。そもそも救急医になりたいと思う人が少ないし、定期的に朝までの当直をしなければならない。また、単に患者・病気を診るだけではなく、トラブルを抱えた者やややこしい人も扱わなければならないのだ。作中では医師が何度も「キツいです」と口にしていた。とにかく、「掖済会が最後の砦である」という自負・プライドで無理やり乗り切っているみたいな感じに見えた。
というわけで、労働環境としてはなかなか厳しい状況にあると言えるだろう。
しかし、他の病院のことは知らないが、少なくとも掖済会のERは、とにかく雰囲気がメチャクチャ良かった。心理的安全性というのはざっくり言えば、「組織の中で安心感を持って言動が行える状態」みたいなことを言う。ハラスメントが無いみたいなことは当たり前だが、「上下関係が厳しくて言いたいことを言えない」「ミスをしたら怒られるから申告しにくい」みたいなことを感じずにいられる状態が「心理的安全性が確保されている」と言えるのだが、掖済会のERはまさにそのような環境に見えた。そして、そのことに僕は最も感心させられてしまった。個人的には正直、どうやってこんな組織作りが出来ているのか、そこに興味があるくらいだ。
「病院」というとなんとなくだが、「白い巨塔」や「ドクターX」など「権力を持つものがその権威を振りかざして風通しが悪い」みたいな印象を持ってしまう。まあもちろんそれらはフィクションなのだが、しかし、「権威主義」的な雰囲気が厳然と存在していることは確かなような気がする。そういう中で「心理的安全性」を確保するのは、結構難しいように思う。
しかもだ。これも他の病院のことは知らないが、少なくとも掖済会では「研修医は2年目まで救急科に配属」と決まっているらしい。3年目からは自分で好きな科を選ぶ(もちろん救急科を選ぶことも可能だが、なり手は少ない)のだが、2年間は救急科に配属になるというわけだ(ただ、僕のこの受け取り方は間違ってるかもしれない。どう考えても、救急以外の科も経験した上で決断できるような仕組みじゃないとおかしいよなぁ)。
ということは、救急科には「医師になったばかりの若者」がたくさんいるということになる。そしてやはり、若手の方が萎縮してしまうことが多いだろう。だからこそ、余計意識的に「心理的安全性」を確保するための取り組みをしなければならないように思う。
そして、掖済会のERは、どうやっているのか知らないが、そのような「心理的安全性が確保された状態」が完璧に作られていた。少なくとも、映像で映し出される情景からはそんな風に判断されると思う。もちろん穿った見方をすれば「カメラがあるから良く見せているのだ」という捉え方も可能だろうが、1分1秒を争うような命の現場でそんな余裕はないだろう。だから、カメラに映し出された光景は、掖済会ERの普段の様子なのだと思う。
そしてそうだとすれば、「働く環境としてとても素晴らしい」と僕には感じられた。肉体的には相当大変だと思うし、患者と対峙する上では精神的にやられることはあるだろうが、少なくとも職場環境そのものが働く者の精神を侵すことはないように感じられた。
たぶんこの映画の見方としては亜流も亜流だと思うのだが、僕は本作を観て、まずその点が最も印象的だった。
どうやって心理的安全性を確保しているのかはよく分からないが、そのような環境作りを行っている理由は想像できる。掖済会病院では、先程も書いたが、3年目からは自ら希望する科を選ぶ。掖済会病院には36の科があるが、もちろん救急科だからといって何か優遇されるわけではない。他の科と同じように、研修医たちの希望によってのみ配属が決まるのだ(これも他の病院がどうかは知らないが、掖済会病院では完全に研修医個人の希望のみによって決まるようなので、その仕組みも凄いなと思う)。
さて、救急はただでさえ希望する人が少ない。それは「キツいから」というだけではない。救急科のセンター長が話していたが、「救急医はどうしても、専門医よりも下に見られている」のだそうだ。
救急科はもちろん、運ばれてきた患者を可能な限り救急科で診るのだが、時にはそうもいかないことがある。どんぐりが鼻の奥に詰まってしまった子どもは、結局耳鼻科の医師に頼ったし、腹痛を訴えているがCTを見ても原因が分からない患者はお腹の外科医(と表現していた気がする)に診てもらうことにした。結局、救急科では分からなかったが、CTから腸が壊死していたことが分かったそうで、そのまま手術が決まった。この場面では、「最初から救急科を志望している」と話していた研修医・櫻木佑が、「やっぱり専門医は凄い。救急科に希望を出すのかちょっと悩んでしまう」と心境を吐露していた(こういう話をカメラの前で出来ることも、心理的安全性の高さを示していると感じる)。
専門医からすれば、「救急医は患者を専門医に振り分けているだけ」という風に見えるだろうし、作中には実際に「振り分けられるこっちの身にもなってよ」と愚痴を口にする専門医の姿も映し出されていた。
このように救急医は、「何でも診れるが、専門性を深めることが難しい」という性質を抱えている。メインで映し出される救急医・蜂矢康二は、「何でも診れるから面白い」と言っていたし、研修医の櫻木も同じ理由で救急科を志望していた。そこを面白がれるなら救急科は楽しいだろうが、「専門を深めたい」と考える人にはどうしても選択肢から外れてしまう。
また、救急科以外であればその後の出世などもある程度見通せるのだが、救急科ではなかなかそれも難しい。これもセンター長が話していたが、やはり救急科から上に上がっていくような人は多くないようなのだ。彼は「専門医と救急医が同列になるようにこれまで努力してきたつもり」と言っていたが、現実はなかなか難しいのだろう。
しかし映画の最後に「おぉ!」と感じる字幕が表示された。なんと、このセンター長が2023年に院長に就任したのだそうだ。掖済会病院では、救急科出身の院長は、75年の歴史で初めてだそうだ。まさに有言実行という感じで、カッコいいなと感じた。
さて、話を戻そう。救急科は色んな理由で人気が無い、という話だ。そしてだからこそ、「せめて働く環境だけでも良くないと、研修医から選んでもらえない」という危機感があったのだろう。そういう背景があるからこそ、救急科のスタッフが一丸となって「ここで働こうと思ってもらえるような環境づくり」を意識的にせよ無意識的にせよ実践しているのだと思う。
さて、映画で映し出されるのは、「社会問題の幕の内弁当」みたいな感じである。予告でも使われていたが、「『何でも診る』というのが、年齢・病気の『何でも』だと思っていたが、社会問題を含めた『何でも』だった」というセリフがとても印象的だった。
例えばある患者は、何らかの症状を訴えて雪降る夜に自ら歩いて救急科にやってきた。聞けば、保険に入っておらず、お金もないという。どうしたものかと医師・看護師で話をするのだが、最終的にはその患者が「寒かったから来た」と話したという。それを看護師が別の人に楽しそうに喋る場面が映し出されている。こういう場面も凄いなと感じたのだが、とにかく彼らには「断らないし誰でも診る」というモットーが通底しているのだろう、普通ならムカついてしまうだろう場面でも「それなら良かったー」みたいな感じの雰囲気になるのだ。
一方で、苛立ち(と表現するのは正しくないかもしれないが)が現れる場面もある。
コロナ禍において、掖済会病院のERでは「保健所からの指示がない患者のPCR検査をしない」と表明していた。理由は簡単で、「掖済会病院のERに行けばPCR検査を受けさせてもらえる」みたいな状態にならないようにするためだ。あくまでもERは緊急の重症患者をメインで受け入れる場であり、そのための余力を緊急性の低い患者に割くわけにはいかないのだ。
しかし状況によってはPCR検査を決断せざるを得ない。救急隊からの電話で、「患者がこのように話している」という内容を聞き、PCR検査を行うことを決めるのだが、病院側には、その患者の話が本当であるかどうかは分からない。単にPCR検査を受けたいがために嘘をついている可能性だってあるわけだ。そのような「重症患者を受け入れるというERの本質を侵しうる状況」に対しては、やはり「苛立ち」が現れる。
また、高齢者の搬送も多い。どこのデータなのか分からなかったが、「高齢者の救急搬送」は、1982年には37万件だったのが、2021年には340万件になっているそうだ(日本全体なのか、愛知県なのか、名古屋市なのか分からないが)。超高齢化社会だから当然と言えば当然だが、搬送件数は激増していると言える。
そして中には、認知症の患者もいる。蜂矢医師が難しいと言っていたのが「家族が納得しないこと」である。医学的には自然な経過であっても、家族が「昨日までは元気だった」「もっと良くなるはずだ」と考えて、医師の説明に納得しないことも多いというのだ。
このように医師たちは、単に「患者・病気」と向き合うというだけでは済まない日々を過ごしているのである。
ただ、少なくとも蜂矢医師は、そのことを楽しめているようだ。ある場面で彼は、「患者は数字じゃないぞ」と研修医に語っていた。患者の背景まで含めて「病気」なのであり、数字だけ見ていても分からないことがある、というわけだ。事件現場から証拠品を採取して状況を組み立てる鑑識みたいな役割なのだろう。確かに「専門性を深められない」という欠点はあるが、やはり、本作を見ていると「救急医ってカッコいいな」と感じる。
しかし同時に、「とにかく『マンパワー』で乗り切るような仕組みではあってほしくない」とも感じた。しんどい職場だからこそ、とにかく「システム」によって状況が改善されてほしい。救急科を成立させる要素が各個人に属していると、個人の負担があまりにも多くなってしまう。そうではなく、システム全体を改善することで問題が解決されるような状態であってほしいと思う。
まあその辺りは、救急科初の院長が誕生したことから考えても、期待していいのかもしれない。年間1万台(つまり1日300台ぐらい)救急車を受け入れる常軌を逸した病院の凄まじさに圧倒されたし、今後もどうにか無理しすぎないようにその社会奉仕が継続して言ってくれることを願わずにはいられなかった。