【映画】「南瓜とマヨネーズ」感想・レビュー・解説

基本的に配信では映画を観ないと決めているので、「昔の映画」を劇場公開しているのを見かけたら、なるべく観るようにしている。今回は『南瓜とマヨネーズ』。「マンガが原作な気がする」ぐらい知識だけで観に行ったので、若葉竜也が出てて驚く。僕が観たいと思う映画には、結構出てくるんだよなぁ、若葉竜也。

さて、映画としては、ムチャクチャ面白いということはなかったけど、雰囲気は結構好きだったかなという感じ。臼田あさ美が結構良かったんだよなぁ。「売れないバンドマンを支えている彼女」という役柄がとても合っている気がする。まあこれは、褒め言葉になるのかよく分からないけど。

というか、「売れないバンドマン」という表現も正しくはない。正確には「バンドを辞め、『曲を書く』と言って全然書かない男」である。

ライブハウスで働くツチダは、そこで出会ったバンドボーカルのせいいち(せいちゃん)に惚れ込み、一緒に暮らすようになった。せいいちは働かず、家にいても何もせず、曲さえ書かないが、それでもツチダは良かった。お金は自分が稼ぐから、良い曲を書いてライブをやってミュージシャンになってくれたらそれでいい。そんな風に思っていた。

そんなせいいちとの生活を支えるために、ツチダは内緒でキャバクラでも働き始める。そこで出会った客から「お金を稼げる仕事がある」と言われて、愛人になったりもした。もちろんうんざりするぐらい嫌だったが、でも、せいちゃんが夢を目指して頑張ってくれたら、それで全然良かった。

でもある日、ふとしたことでツチダが身体を売ってお金を稼いでいることがバレてしまう。そしてそのことをきっかけにせいいちは、今までの生活を改めてバイトを詰め込みまくるようになる。しかしそれは、ツチダが望んでいることではまったくなかった。

そんな折、ライブハウスでの仕事中、ツチダはかつての恋人ハギオと再会する。彼女は今も、ハギオのことが忘れられず、頻繁に会うようになるのだが……。

というような話です。

これは僕が男だからかもしれないが、やはりツチダがどうしてそこまでせいいちのために尽くせるのか不思議に思える。ただ、作中でも「私も昔ろくでもない男に尽くしてたよー」とライブハウスの同僚と話している場面があったので、女性からすればそれなりには共感できる話なのだと思う。

ただ観ていて感じていたのは、「『無償の愛』というのは本当に難しい」ということだ。

恐らくツチダは、「自分はせいちゃんに「無償の愛」を注いでいる」みたいに感じていたのではないかと思う。「そんな自分に酔っていた」みたいな話をしたいわけではないのだが、「私はせいちゃんには何も求めていない。ただせいちゃんがしたいと思うことをしたいようにしてくれればいい」みたいに考えていたはずだろうなと思う。

ただ、傍から見ていれば、そうではないことは明らかに分かる。というのもツチダは「曲を書くこと」を見返りに求めていたからだ。もちろんツチダは、「作曲はせいちゃんがやりたいと思っていること」と認識していたはずで、だから「押しつけてはいない」という認識だっただろう。そしてせいいちとしても、当初はそうだったのだと思う。「作曲は自分がやりたいことだ」とちゃんと思えていたと思う(この辺りの描写は無いので、僕の勝手な予想だが)。

しかし、2人が一緒に暮らすようになり、ツチダが2人分の生活費を支えるようになったことで、恐らく、せいいちにとって「作曲」が「やりたいこと」から「やらないければならないこと」に変わってしまったのだと思う。その証拠に、という言い方はおかしいが、作中でせいいちはちゃんと曲を完成させる。恐らく、環境が変わったことで「やりたいこと」に戻ったのだと思う。それが伝わったからこその嬉し涙、悲し涙だったのではないかという気がする。

ツチダはせいちゃんの夢を支えているつもりだった。しかし「夢を支える」というその行為によって、せいいちの夢は夢ではなくなってしまったのだ。こうなってくると、彼らが2人で一緒にいることのプラス要素が無くなってしまう。遅かれ早かれと言ったところだろう。

そのように考えると、ハギオとの関係が対比的で面白い。ツチダにとってせいちゃんは、意識的にも無意識的にも「自分が介入することによって相手を変質させてしまう存在」だったわけだが、ハギオは真逆だ。ツチダがどんな行動を取ろうとも、ハギオは変わらない。だからツチダは、せいちゃんとの関わり方と比べれば「無遠慮」と言っていいような接し方をハギオに対してはするのだと思う。

難しいのは、ツチダにとってはきっと、どちらに対しても「好き」という気持ちが成立していることだろう。客観的に見ると、「せいちゃんへの好き」と「ハギオへの好き」は相容れないように感じられるし、どことなく矛盾したような感覚にもなる。恐らくそういう気持ちはツチダ自身抱いているとは思うのだが、しかし同時に、ツチダの中では両立しているのだ。

ハギオとの会話の中で、2人が共に興味深いことを口にしていた。ツチダはハギオに対して、「もし『一緒にいること』が当たり前のようになっても、私のこと好きでいてくれる?」と聞く。それに対してハギオが、「『一緒にいて楽しい』って思える内は好きなんじゃない」と返すのだ。ハギオは常にこんな感じで、「今目の前にいる俺」以外のすべてのあやふやにしていく感じが絶妙だった。

一方で、ツチダの「もし『一緒にいること』が当たり前のようになっても、私のこと好きでいてくれる?」という発言は明らかにせいいちを意識したものであり、ハギオとは全然違う存在だと示唆される。だからこそツチダは、「せいちゃんの未来」に投資出来るのだ。ハギオには投資できないが、せいいちには「未来」が存在し得ると感じたのだと思う。

こんな風に、せいいちとハギオが両極端な存在として描かれているという点もなかなか興味深かった。

あと、あんまりこういうことは書くものじゃないと思うけど、やっぱりちょっとビックリしたので書こう。臼田あさ美のスタイルが良くて驚いた。でも、こういうことを書くと「細いほど良い」みたいになって、それはそれでどうなんだ、って感じもしてしまうんだけど。なら書くなよって話だけど。

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長江貴士
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