【映画】「マミー」感想・レビュー・解説
ムチャクチャ面白かった。これは観て良かった。和歌山毒物カレー事件の林眞須美が冤罪だなんてまったく考えたこともなかったが、本作を観れば「なるほど、それはあり得る話だな」と感じさせられるだろう。しかし、まさかSPing-8まで作中に登場するとは。ビックリ。
連日、シアター・イメージフォーラムが満員だ。8/3から再上映の映画『蟻の兵隊』も満員なら、同じ日に公開された本作『マミー』も満員。今日は、毎週月曜のサービスデーだったこともあるかもしれないが、『マミー』はたぶんすべての回が満員だったようだ。まあそれもそうだろう。東京で公開しているのが、シアター・イメージフォーラムしかないんだから。しかし、公式HPの劇場情報を観ると、関西の映画館では、「林眞須美さんの長男」も舞台挨拶に登壇するようだ。本作では顔にモザイクがかかっていたが、イベントではどうするのだろう。
さて本作は、先程も少し触れた通り、1998年7月25日に和歌山市園部で起こった事件が扱われている。「和歌山毒物カレー事件」と呼ばれている事件だ。本作でもざっと概要が説明されるので、まずその辺りから初めていくことにしよう。
7月25日、園部という住宅街で地域のお祭りが開かれていた。そして、そこで振る舞われたカレーを食べた者が、「食中毒」として病院に次々搬送されたのだ。結果として、小学生を含む4名が死亡、67名が体調不良を訴えるという大騒動となった。後に、カレーにヒ素(亜ヒ酸)が混入されていたことが判明した。
その後しばらく、捜査に進展はなかったのだが、同年8月25日、事件からちょうど1ヶ月後の朝日新聞の朝刊であるスクープ記事が出た。事件よりも前に、その地区の民家でヒ素中毒になった者が2名もいると報じたのだ。そしてその家こそ、カレーを作っていた敷地からほど近い林眞須美宅だったのだ。
その後、「林眞須美が保険金殺人を企てたのだ」とも報じられ、一気に林眞須美に容疑が固まっていくことになる。そして10月4日、林眞須美は逮捕された。その後、2009年5月19日に死刑が確定、今も拘置所に収容されている。
1998年は、僕が15歳。当時、相当騒がれたことを覚えている。「林眞須美」という名前や「報道陣にホースで水をかける様子」など、昔のことをほとんど忘れている僕の脳内にも結構印象的に刻まれている。
さて、本作では、そんな事件について「林眞須美は冤罪ではないか」という方面から描き出していく。もちろん、色んな要素が含まれる作品なのだが、全体の方向性としては、「様々な事実を明らかにすることによって、林眞須美の無罪を示す」という目的がある。
それでは、その辺りの理屈を見ていくことにしよう。
裁判において重視された証拠がいくつあるのか分からないが、本作ではその内の2つに絞って「おかしな点」を明らかにしようとする。その2つというのが「目撃証言」と「ヒ素の鑑定」である。それでは「目撃証言」の話から始めよう。
まず大前提として、「和歌山毒物カレー事件」において「林眞須美の犯行であることを示す直接的な証拠」は存在しない。そのことは、弁護を担当した弁護士が本作の中で話していた。「鍋にヒ素を入れた」という目撃証言があれば犯行の立証は完璧と言えるが、そのような証拠はない。
では、裁判ではどのような目撃証言が採用されたのか。それは、カレーを作っていた敷地の向かいの家に住む高校生のものだ。彼女は家の窓から、「林眞須美が1人で鍋の近くにいた」「林眞須美が周りをきょろきょろしながら鍋の蓋を開けていた」というものだ。まず、この証言について徹底的に事実を追究していく。
まず重要なポイントは、「高校生が住む家から、林眞須美がカレーを作っていた場所までは見通しが悪く、障害物なども多かった」という点だ。確かに、見えはする。しかし、視界はかなり狭い。林眞須美がいた場所のほんの一部しか見えなかった、と考えるのが妥当である。さらに、その高校生は、当初「1階から見ていた」と証言したのだが、後に「2階の自室から見ていた」と証言を変えている。これが単なる勘違いなのか、あるいは警察からの誘導があったのか、その辺りのことは分からないが、やはり「不自然さ」を感じさせるポイントだろう。
その上で、いくつか興味深い指摘がなされる。まず、本作には林眞須美の長男(仮名だが、本作では林浩次という名前で登場する)が出てくるのだが、彼は事件当日、カレーを作っている母が次女と一緒にいる場面を目撃している。この記憶については、後に次女と何度も話をしたが、やはり間違いないという。もちろんそれだけで、「林眞須美が1人でいた時間がなかった」ことの証明にはならない。ただそもそも裁判では、「母親と一緒にいた」という次女の証言や、「次女と母親が一緒にいるのを見た」という長男の証言は、「身内のもの」として採用されなかった。
そしてなんと、当時林眞須美も次女も、「次女が鍋の蓋を開けた」と証言していたそうなのだ。次女は味見をしてみたいと、母親の制止を振り切って鍋の蓋を開け、指を突っ込んで味見をしたという。この姿を、高校生は目撃したのではないかというわけだ。
しかし、母親と次女を見間違うだろうか? この点についても、実に興味深いエピソードが提示される。当時、写真週刊誌のフライデーが、室内にいる林眞須美を写した写真を誌面に載せたのだが、実はその写真は次女のものだと発売後に判明し、回収騒ぎになっていたそうだ。つまり、「事件現場で取材をしていたカメラマンさえ見間違うぐらい、2人は見た目が似ていた」というわけだ。
さらに、高校生は当初「林眞須美の髪の毛が鍋に入りそうだった」と証言したそうだが、当時林眞須美は短髪で、髪が長いのは次女の方だったのだ。さらに言えば、現場には当時カレー鍋は2つあったのだが、「林眞須美(次女)が蓋を開けたカレー鍋」の方にはヒ素は入っていなかったのである。つまり、「ヒ素が入っていないカレー鍋の蓋を開けた」というだけで「怪しい」ということにされてしまったのである。
このような傍証を積み重ねることで、「高校生が目撃した時、林眞須美は1人ではなく次女と一緒にいて、高校生が林眞須美だと思った人物は実は次女だった」と考えられることになるのである。
さて、この「目撃証言」の話が最初に扱われるのだが、この時点ではまだ僕は「林眞須美が冤罪とまでは言えないだろう」と考えていた。確かに、「高校生の目撃証言」は完全に崩れていると言えるだろう。しかしそれは、「警察・検察が提示したストーリーが崩れた」というだけの話であり、「林眞須美が犯人である可能性」を否定するものではない。「高校生が目的した『鍋の蓋を開けた人物』が実は次女だった」からといって、「林眞須美がヒ素を入れなかった」という話にはならない。だから、この時点ではまだ弱いと考えていた。
しかし次に取り上げられる「ヒ素の鑑定」は、かなり決定的と言えるように思う。これが事実だとしたら、「林眞須美が無罪である可能性」はかなり高いと言っていいだろう。
さて、冒頭で「Spring-8」という名前を出したが、これは素粒子物理学などで使われる加速器という実験装置だ。兵庫県にある巨大な施設で、直径約500mもの巨大な円形をしている。東京ドームの直径が約200mのようなので、その大きさが想像できるだろう。
しかし、このSpring-8が何なのか。実はこの施設で、「ヒ素の鑑定」が行われたのだ。実はこのことは、以前読んだ『すごい実験』という本に書かれていたので知っていた。高速で加速した物質にX線を当てることで、物質の組成が細かく分析できるそうで、これによって「2つの試料が同じものか否か」が判定できるというわけだ。
この鑑定を行ったのが東京理科大学の中井泉である。当時、別の方法でヒ素の鑑定を行ったところ「ビスマス」という成分が検出されたそうで、そのことを知った中井は、「それならSpring-8での分析が最適だ」と判断したそうだ。
さて、鑑定はどのように行われたのか。「2つの試料」が同じかどうかを検証するのだから、「事件で使われたヒ素」と「林眞須美が使用可能だったヒ素」を手に入れ、その2つを比べるしかない。
まずは後者「林眞須美が使用可能だったヒ素」の話からしよう。そもそも、林眞須美の夫がシロアリ駆除の仕事をしていたこともあり、林眞須美の自宅にもヒ素があった。また、「林眞須美の友人宅」「林眞須美の兄弟宅」からもヒ素を押収し、それらを「林眞須美が使用可能だったヒ素」としたのである。
一方「事件で使われたヒ素」はどうやって入手すればいいか。カレーの中に混入されたヒ素は単離が難しい。人体に入ったヒ素も同様だろう。しかし捜査の結果、どこかのゴミ箱から紙コップが発見され、それにヒ素が入れられていたと認定されたようだ(どうしてそのように認定されたのかは触れられなかった)。そのため、「この紙コップに残っているヒ素」が「事件で使われたヒ素」とされたというわけだ。
さて、後は加速器を使って鑑定するだけだ。そして、それらのヒ素の成分を細かく分析しグラフ状にしたところ、明らかに「同じ」だった。この点に関して中井泉は「同一起源」と表現していた。これは重要なポイントなので覚えておいてほしい。
そしてこの鑑定により、「事件で使われたヒ素」と「林眞須美が使用可能だったヒ素」は「同じ」だと判定されることになり、これが有力な証拠として採用されることになったのだ。なるほど、これはなかなか動かせない証拠だなと僕は感じながら観ていた。
しかしその後、京都大学の河合潤という教授が登場する。彼は2010年か2011年のどちらかに、林眞須美の弁護団から「会いたい」と連絡をもらったという。そして、裁判で提出された鑑定資料を読んでほしいとお願いされたのである。河合氏は、「中井さんがやっているならちゃんとした鑑定なんだろう」と思ったそうだが、資料を読んでみることにしたそうだ。
そしてすぐに「おかしな点」に気づく。この件に関して河合氏は、「ちょっと酷いな」と強い言葉で中井氏の鑑定を非難していた。
では一体どこに問題があるのか。中井氏は裁判の中で、「パターン分析を行った結果、同じだと判断した」と証言していた。しかし本来、「パターン分析」には厳密な手順があるようだ(それがどういうものかは作中では示されていないが)。なのに中井氏は「目視でパターンが同じだ」と判断したのである。河合氏はこれを「中井氏の主観」と一刀両断していた。
しかし、その一体何が問題なのか? 河合氏が言うパターン分析を「厳密なパターン分析」、そして中井氏が行ったパターン分析を「粗いパターン分析」と表現することにしよう。中井氏が行った「粗いパターン分析」では、「中国産」なのか「韓国産」なのか「メキシコ産」なのかと言ったざっくりした違いしか分からない。つまり中井氏の鑑定は、「『事件で使われたヒ素』も『林眞須美が使用可能だったヒ素』も共に『中国産』だった」という程度の認定しかできていないのだ。もちろん、「厳密なパターン分析」を行えば、もっと細かくその違いが分かる。
そして、「事件で使われたヒ素」も「林眞須美に使用可能だったヒ素」も岡山の会社が販売したものなのだが、1ヶ月にドラム缶5本~10本ぐらいは出ていたため、中井氏が行った「粗いパターン分析」では「事件で使われたヒ素」と「同じ」と判断されるヒ素は他にもたくさん存在したことになる。実際、本作の監督らによる取材により、事件当時、近隣の他の住民にもヒ素を持っていた人がいることが判明していた。しかし、それらのヒ素については科学的な鑑定が行われていない。
そもそも河合氏は、「1つのやり方だけで鑑定したら間違う」と言っており、「クロスチェックが必要だった」と言っていた。しかし、「Spring-8」以外の鑑定方法は、恐らく行われていない。1つの手法だけしか行われていないこの鑑定は、やはり認め難いというのが河合氏の判断のようである。
もちろん、中井氏にも反論がある。その主張は概ね2つに分けられる。1つは、「自分の鑑定が決定的な判断になるとは思っていない」というもの。つまり中井氏は「補助的な証拠能力」程度に認識していたため「粗いパターン分析」でも問題ないと判断していたようだが、実際にはそれが強力な証拠として採用されたというわけだ。彼はずっと「同一起源」という表現を使っていたが、これはつまり「同一なわけではない」という意味なのだろうし、そういうスタンスで自分は鑑定を行っていたんだ、という主張なのだと思う。
そしてもう1つは、「試料の量に違いがあり、鑑定に限界があった」というもの。よく分からないが、恐らく「厳密なパターン分析」を行うには「試料の量を揃える」必要がある、ということなんじゃないかと思う。しかし実際には、それは不可能だった。だから「粗いパターン分析」をするのが限界だったし、仕方なかったというわけだ。この主張が妥当なのかは僕には判断出来ないが、ただ、「限界がある鑑定なのから、参考程度に留めるべき」みたいな話はしておくべきだったのではないかという気がする。それを言わなかったのだとしたら、中井氏に落ち度があるように感じられてしまう。
また、その根拠についてはよく分からなかったが、河合潤がある場面(林眞須美の冤罪証明を支援するシンポジウムみたいな場だと思う)で、「『事件で使われたヒ素』と『林眞須美が使用可能だったヒ素』は、今手に入る情報から判断すると、明らかに違うんですよ」とも発言していた。だから検察に「再鑑定」を要求しているのだが、検察からは拒否されているそうだ。
もちろん、「2つのヒ素が違う」としても、それが「林眞須美の無実」を示すものとは言えないかもしれないが、その場合、「林眞須美は他人の家に保管してあったヒ素を盗み犯行に及んだ」ということになる。そしてそれはやはり、「林眞須美を犯人に仕立てるための我田引水の説」に感じられてしまう。確かにその可能性はゼロではないと思うが、「林眞須美ではない誰かがヒ素を混入した」と考える方が遥かに妥当だろう。
さて、本作では主にこの2点を中心に「林眞須美は冤罪ではないか」という主張がなされるのだが、実はもう1点ある。そして、個人的には、ある意味でこの話が最も興味深いものに感じられた。
「和歌山毒物カレー事件」の概要を説明した際、「朝日新聞の記事によって林眞須美に疑惑が向いた」と書いたことを覚えているだろうか。その記事は、「事件以前にもヒ素中毒になった者が2名いた」というもので、それが林眞須美宅で起こっていたというものだった。実はその1人が林眞須美の夫であり、もう1人は林宅に居候していた泉という男である。
さて、「和歌山毒物カレー事件」に関しては「動機」の解明が全然なされていない。林眞須美は一切語らなかった(冤罪だとしたら当然だが)し、捜査によっても明らかにはならなかった。しかし裁判では「動機」の説明がないと立証が弱くなる。そこで警察・検察はこのようなストーリーを仕立てあげた。「林眞須美は以前から、夫や居候男性にヒ素を飲ませていた。だから、軽い気持ちでカレー鍋にヒ素を入れ、大事件を起こしたのだ」。実際にこの主張が裁判でも採用されているのだそうだ。
この話の要点はこうである。「林眞須美は、夫と泉に内緒でヒ素を盛っており、快楽的に人を殺そうとした」。この話が認定されなければ、「軽い気持ちでカレー鍋にヒ素を入れ大事件を起こした」という話が成立しないことになる。動機らしい動機が見つからなかったのだから、警察・検察としては、死刑判決を勝ち取るためにはこのストーリーを貫く必要がある。
しかし本作では、そんな警察のストーリーを、林眞須美の夫・健治が粉砕するような発言をしていた。彼はなんと、「眞須美と一緒に保険金詐欺をやっていた」と堂々と告白しているのである。健治は自らヒ素を舐め、その症状によって「終身介護が必要」と認定、日本生命から1億5000万円の保険金を受け取ったというのだ。さらに同じことをもう一度行い、同じ金額の保険金を得ている。
さて、この証言は、警察・検察としては大変困るものだ。何故なら「カレー鍋にヒ素を入れる動機」が成立しなくなってしまうからである。そしてだからこそ、健治も堂々と保険金詐欺の話をカメラの前でしているのだと思う。もちろんそれは「妻の無実の証明のため」という側面もあるだろうが、同時に、「妻を犯人にしている限り、保険金詐欺で自分が捕まることはない」という判断もあるのだと思う。健治の保険金詐欺を認めるということは、林眞須美も保険金詐欺に加担していたことを示すことになり、となれば「無差別殺人を行う動機」に繋がらないからだ。
この「保険金詐欺を行っていたことをカメラの前でべらべら喋る」という要素が、法律論的にはなんの証拠にもならないだろうが、感情的には「ホントに林眞須美はやってない気がする」という感覚をもたらすものになっていて、個人的にはとても興味深かった。にしても、長男の話なんかも含め、それまで「良い家族」みたいな雰囲気で提示されていたのに、健治のこの証言によって一気に「イカれた一家」みたいな雰囲気になってしまった。まあ、子どもたちに罪はないが。
さて、これで「林眞須美が冤罪かもしれない」という説明は終わりである。以前観た、飯塚事件を扱った映画『正義の行方』も冤罪が扱われるドキュメンタリーだが、ホントに日本の司法は、「過ちがあったのなら認めたほうがいい」と思う。林眞須美についても再審請求を出しているが、通っていない。先述した通り、ヒ素再鑑定依頼も拒否されている。司法の信頼回復のためにも、真っ当な判断がなされるべきだと思う(真っ当な判断とは「無実の証明」というわけではなく、「再審や再鑑定を認めること」である)。
さて、『正義の行方』と本作を少し比較してみたいが、「客観性」という意味で結構違いがある。『正義の行方』は「飯塚事件は冤罪である」という決めつけはせず、あらゆる要素をかなり平等に盛り込みながら「冤罪の可能性」を示唆していたが、本作『マミー』は「林眞須美は冤罪だろう」という結論ありきで作られている感じがある。ちょっとその辺りは、あまり好きにはなれないポイントだった。
また、本作には監督が出てくる場面も多々あるのだが、それらを観ていると「監督のことはちょっと好きになれないなぁ」という感覚にもなってしまう。特に映画後半における監督の振る舞いは、「受け入れがたさ」の方が買ってしまうかなぁ。もちろんこれは見方次第であって、「冤罪の証明のためにもの凄く熱心に動いている」と肯定的に捉える人もいるとは思う。それはそれでいいだろう。確かに、そういう見方も可能だからだ。ただ、個人的には、ちょっと好きにはなれないなぁ、という感じだった。
ただ、それはそれとして、「監督がここまで強い主張を抱きつつ映画制作をしなければ、ここまでお客さんを劇場に足を運ばせることは出来なかったかもしれない」とも思う。この辺りの判断は難しいところだ。「林眞須美の無実を証明したい」という想いは本物だろうし、その情熱があるからこそここまで深く突っ込んだ取材が出来たのだろう。そしてそんな情熱を何かしらで感じ取った人たちが映画館に足を運んでいるのではないかと思う。そんな風に考えると、一概に否定も出来ないかという感じにもなる。難しいところだ。
さて最後に。林眞須美の長男のある言葉が印象的だった。
彼は、母親が逮捕されてから数年は、あまり事件に関心を抱いていなかったそうだが(当時まだ小学生とかそれぐらいだったようなので仕方ないだろう)、ある時点から興味を持って調べるようになり、裁判記録とかも読むようになったそうだ。そして、小学生が亡くなっている事件でもあるので、裁判でその遺族が悲しみを表明しているような記述にも触れてきた。
だから彼は、「軽々しく『母は無罪だと思う』とは言えない」という感覚を抱いている。そしてその上で、何年も調べ、考え続けた結果、やはり彼は「母は無実だと思う」という感覚を抱くようになったのだそうだ。「身内だから信じる」みたいな話ではなく、本作で描かれているような「おかしな点」を自分でも色々見つけ出し、「やはり間違っている」という考えにたどり着いたのだそうだ。
そんな風に考える彼のスタンスは、とても真摯に感じられたし、全体的に「母親が死刑囚」という”重り”を抱えて生きざるを得ない中でも、至極真っ当に生きていると思えたのが印象的だった。
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