【映画】「CLOSE/クロース」感想・レビュー・解説
僕は基本的に異性の友だち(僕は男なので、女友だち)が多い。というかある年齢以降、「女性とは友だちになろう」と思考を切り替えたこともあり、恋愛関係にならない女友だちが、普通の男よりは多くいると思う。
しかし、そういう話をすると時々、「恋愛にしようとは思わないの?」みたいな反応になる。ウザい。
世の中の人はどうにも、「名前が存在する概念」に他人を放り込みたいと思うようだ。だから、「恋愛」とか「家族」みたいな概念に押し込めたがるし、たぶんLGBTQの「Q」は許容しにくいんだろうと思う。
まあ、理屈はわからないでもない。
以前、ネット上で結構名の知れた人物(割と頭が良い人という認識のされ方だと思う)が、今までやったことのない「将棋」を始めたそうだ。コンピューターとの対戦なんかをやっていたのだろう。その人物はそういう対局の中で、「盤面の駒をどんどん減らしたい」という自分に気づいたそうだ。その理由は「駒が多ければ多いほど、考えなければならない選択肢が増えるから」である。盤上から駒が減れば、状況の見通しがつきやすくなり、次に打つべき手も見えやすくなる。
恐らくそれと同じようなことなのだと思う。つまり、「『名前が存在する概念』に他人を放り込むことで、『考えなくて済む』という状態にしたい」のだと思う。
映画『クロース』に登場する、幼い頃から兄弟のように育ったレオとレミは、「名前が存在しない関係性」だと扱われた。親友や幼馴染と言うには仲が良すぎると判断されたのだ。だから「2人は付き合ってるの?」と聞かれることになる。
「親友でも幼馴染でも恋愛関係でもないのにこんなに仲が良い関係性」には、まだ名前がついていない。名前がついていないということは、「多くの人がそれを認識していない」ということであり、そしてそれは容易に「多くの人がそれを認めていない(拒絶している)」という捉えられ方にもなりかねない。
だから「世間」は、「拒絶しているわけではない」ということを示す意味でも、「『名前が存在する概念』に他人を放り込む」方が都合が良いのだと思う。レオとレミの関係にしても、それが「恋愛」だというのなら、「男同士の恋愛ぐらい受け入れるよ」みたいな姿勢を提示できる(まあ、この映画で描かれる同級生たちにその意図があったとは思わないけど、あくまでも可能性として)。ただ、「親友でも幼馴染でも恋愛でもない関係性」は、「世間」にとっては「困る」のだ。だから放っておけない。
そして、そういう「世間」が、僕は大層嫌いである。
他人をカテゴライズする人間は、大抵、「カテゴライズされようがない人間」である。つまり、「普通」ということだ。あらゆる意味において「普通」である場合、カテゴライズする意味がない。「普通」というカテゴライズに意味が生まれることもあるが、状況としては決して多くない。そしてそういう「カテゴライズされようがな人間(=普通の人間)」が、無邪気に他人を「名前が存在する概念」に放り込みたがるのだ。
それは「普通」であるが故の劣等感から来るものなんだろうか、と考えたりすることもある。
「名前が存在する概念」に当てはまらないということは、よく捉えれば「突出している」ということでもある。そして「普通の人間」には、そういう「突出した何か」がない。つまり、そういう自分たちが劣等感を抱かずに済むように、「突出した側の人間」を何らかのカテゴライズに収めることでその存在を矮小化していたりするんだろうか。
みたいなことを、割と日々考える。どうにも、世の中にはそういうアホくさい状況があちこちに転がっているように見えるからだ。ネットの誹謗中傷や著名人の自殺なんかも、そういうものの延長線上に存在するように僕には感じられる。
僕も、レオやレミと状況こそまったく違えど、「周りとの馴染めなさ」に苦労した経験がある。僕は人生のどこかのタイミングで、「『周りと違うこと』をプラスに捉える」ことが出来るようになったから、子どもの頃に抱いていたような「馴染めなさ」に対するマイナスの感情を抱くことはもうない。マイナスの感情から脱することが出来た人は、たぶん、そういう「感覚の転換」みたいなことをしているんだと思う。「周りと違うこと」をプラスに捉えることが出来るようになれば、むしろその「違い」は武器にもなるのだけど、そう思えない時には単なる「重荷」にしか感じられないだろう。
そして、その「重荷」は、まさに「世間」が生み出している。
この映画は、レオとレミという2人の少年の周囲を「世間」として描き出し、そんな「世間」のあまりに”些細な”(これは、世間の人間がそう考えているだろう、という意味であって、僕がそう思っているわけではない)反応によって、どれほど大きな影響を生み出してしまうことになるのかを描いていると言っていいだろう。
そしてこう表現すると、それはまさに、SNSなどの”些細な”反応によって甚大な影響が生まれてしまう現代社会そのものを描き出している作品に感じられるだろうと思う。
僕たちが住む「あまりにも醜い世界」を、とてつもなく美しい世界観の中で描き出すことで、その「醜悪さ」が一層際立つ、そういう作品でもあると思う。
内容に入ろうと思います。
花卉農家の息子であるレオとその幼馴染のレミは、家族も認めるほどの仲良しである。学校から帰れば花畑の中を走り回ったりして遊び、夜になるとレオはレミの家へ行き、2人同じベッドで眠る。2人にとってその関係は昔からの「当たり前」のものであり、それまで違和感を覚えることもなかった。
その後2人は共に中学校に進学する。同じクラスになった2人だが、教室でレオがレミの肩に頭を載せたりする光景を見て、周りのクラスメートは少しざわつく。そして女子たちから「2人は付き合ってるの?」と聞かれることになるのだ。
その出来事を境に、少しずつ2人の関係が変わっていく。特にレオは、学校でレミとあまり仲が良いように見られないように振る舞うようになり、そしてやがてその振る舞いは、レオとレミが2人でいる時にも及ぶことになる。
「2人は付き合ってるの?」という”些細な”一言によって、少しずつ歯車が噛み合わなくなっていった2人は、徐々に縁遠くなってしまい……。
というような話です。
この映画では、レオもレミも極端にセリフが少ない。冒頭からしばらくの間、2人がまだそれまでの仲の良さを保っている間はもちろん会話があるが、「2人は付き合ってるの?」と言われて以降、2人の会話は減る。しかしそれは決して、すぐに「仲違い」であることを示さない。何故なら、昔からずっと一緒にいるが故に「沈黙であること」にも違和感がないからだ。中学に入学して間もないということも加わることで、「喋らないこと」「隣にいる時間が減ったこと」が、「仲違い」に直結するわけではない。
そしてだからこそ、この2人の関係性の変化は非常に見えにくいし、ややこしい。レオにしてもレミにしても、相手の変化が「明白な何か」を示していると確信できれば、動きやすかったかもしれない。しかし、実際にはそうではない。レオは確かに、レミを避けるような振る舞いをし始めるのだが、それは僕ら観客だからこそ断言できるわけで、レミ視点ではきっとそうではなかったはずだ。レミは確証が持てなかった。しかし、やはり違和感を覚えていた。ただ、確証が無い状況ではなかなか出来ることは少ない。
また、「名前が存在する概念」ではないという事実は、レオとレミ自身にも影響を与えたといえるだろう。
例えば「恋愛関係」であれば、「自分以外の異性と仲良くすること」や「以前より連絡が疎かになっていること」に対して「どうして?」「何かあった?」と問うことも可能だ。何故なら「恋愛関係」というのは、そういうことを許容しにくい関係だと、ある程度一般的に認識されているからだ。
しかし、レオ本人も「親友以上だ」と言っていたように、彼らの関係性は、世間的な分かりやすい言葉では表現できない。そしてそれはつまり、「こうあるべきだ」という前提条件みたいなものもお互いが共有しにくいことを意味する。「正解の基準」みたいなものが存在しないのだから、相手の変化を「間違っている」と問いただすこともなかなか難しくなる。
それに何よりも、レオにしてもレミにしても「言葉で説得」みたいなことをしたくなかったはずだ。今までずっと、そんなことする必要がないほど分かり合える存在だったのだ。つまり、「言葉で説得」みたいなことをし始めた時点で、それは、「それまでの関係の終焉」を意味するとお互いが直感していたのではないかと思う。「言葉なんかなくたって分かり合える」という関係に、言葉を駆使して引き戻すことは、とても難しいだろう。
みたいなことを、2人の沈黙から色々と読み取れた。そして、セリフを介在させずにそんな2人の心情を見事に描き出したことに、この映画の素晴らしさがあると僕は思う。
とにかく映画の中では、レオもレミもほとんど自分の内面を表に出さないので、それぞれの場面で実際にどう感じていたのかみたいなことはわからない。ただ、物語の設定が非常にシンプルなので、「きっとこうなのだろう」という想像はしやすい。その想像が合っているのかという答え合わせが出来るわけではないが、「映画を観る」という行為の上では、「自分の想像を当てはめて鑑賞する」というが容易なので、観ていて戸惑うことはないんじゃないかと思う。
レオとレミ、共に演じた役者が「美少年」であり、また花畑を駆け回るとか農場沿いの道路を自転車で走るシーンが多かったりと、ビジュアル的にとても美しい作品に仕上がっていると思う。そして、冒頭でも書いたが、だからこそ余計に「醜悪さ」が際立つとも言える。
確かに存在していた「美しい世界」は、何かが少し違ってさえいれば壊れることなく存続したはずだ。しかし結果として、その「美しい世界」は失われてしまった。その残酷さに、やりきれない思いばかりが募った。
そしてだからこそ気をつけなければならない。もしかしたら僕らも”些細な”言動によって、どこかに存在しているかもしれない「美しい世界」を毀損しているかもしれないのだ。
僕らは、そんな世界に生きる必然性など、どこにもないと思う。