【映画】「幻の光」感想・レビュー・解説
映画を観終わって、デジタルリマスター版の公式HPの記述を読んでようやく、本作が能登半島地震を受けて29年ぶりに劇場公開された理由が分かった。
公式HPには、プロデューサーの言葉として、こんな文章が載っている。
【「あれから29年になりますか…」スタッフの多くは感慨深げに言う。「『幻の光』の映画化権をください」と宮本輝邸を訪問したのは1992年、その訪問から映画公開までは4年近くの歳月を要した。監督も新人、主演俳優も新人、もとよりチームを牽引するプロデューサーである私も映画界ではズブの素人であった。その新人たちに、映画の扉は硬く閉ざされたままで、出資も配給も全く目途がたたずただ日々が過ぎていった。「この企画はあきらめるべきかもしれない」とひとり断念の旅をと、輪島に向かった。「こちらでやれることは応援しますよ」立ち寄った観光協会のHさんは軽々と言った。その瞬間から映画『幻の光』は、まぼろしでなく、現実に動き出したのだ。】
今でこそ世界的な映画監督となった是枝裕和だが、本作が初監督作品であり、まだ無名の存在。そして、「主演俳優も新人」というのはおそらく江角マキコのことなのだろう。本人曰く、プロデューサーも素人だったというわけで、普通なら完成しなくてもおかしくない映画だったのだろう。しかし、輪島の人たちの全面的な協力のお陰で作品を完成させることが出来た。そういう想いを抱いていれば当然、「何かしなければ」という考えに至るのも当然だろう。本作の再上映によって、「美しい輪島」を改めて観てもらうという意図もあるようだが、より実際的な話で言えば、これも公式HPの記述だが、「収益から諸経費を除いた全額を輪島市に届け、1日も早い復旧復興を祈念する」ということのようである。
まあ、本作を観る前の段階ではその辺りのことを詳しく理解していたわけではないのだが、そういう観点からも観て良かったかなと思う。
本作は、「生活」と「風景」を映像で繋いだような作品だった。冒頭からしばらく描かれる尼崎での場面ではセリフは多いものの、能登へと舞台を移してからは、セリフは極端に少なくなる。荒れた海が立てる波の音や美しい夕日、輪島朝市のガヤガヤした音、ゴトゴトと走る電車。画面は常時、そういったもので埋め尽くされていく。
物語的な「起伏」という意味では、大きく2つしか無いように思う。1つは、主人公・ゆみ子の夫の死。そしてもう1つは、ゆみ子が再婚のために能登へと嫁ぐこと。この2つ以外は本当に「日常生活」が描かれているだけという感じだ。だからなんというのか、感覚としては「映画を観ている」みたいな感じではなかった。じゃあなんなんだと言われても困るのだが、「生活」と「風景」を眺めているという意味でいうなら「旅」みたいなものと言えるかもしれない。客席に座りながら、観客は旅をしているというわけだ。
そんな中で、物語の中心を貫くのが、「夫は何故自ら死を選んだのか」である。
尼崎に住んでいた夫妻は、慎ましいが、穏やかでぬくもりのある生活をしていた。風呂は銭湯、盗んだ自転車に2人乗りし、爆音でラジオを聞く隣人の老人に思いを馳せる。そんな何でもないけど愛おしいような日々を過ごしていた。
さらにそれから2人は子どもが生まれる。まさにこれから人生が再び始まっていくというような、そんな日々だったのだ。
しかし夫は、生後3ヶ月の子どもを残して、自ら命を絶った。理由は、ゆみ子にもまったく想像が出来なかった。
そんな想いを抱えながら生きる女性を主人公にしている。荒れる日本海はゆみ子の心情を表しているようにも思うし、度々映し出される電車は、「幸せのレールの上を走っていると信じていたゆみ子」のことを象徴しているようにも思う。
ゆみ子は、子連れで能登へと嫁いでいく。表向き、その生活はとても平穏だ。息子は、再婚相手の娘と仲良くなり、夫婦仲も問題なし、地元にも受け入れられている。しかしその一方で、ゆみ子の心の内側は日本海のように荒れている。
それはもしかしたら、日常が平穏であればあるほど強まっていったのかもしれない。というのも、自殺した夫との生活も平穏そのものだったからだ。平凡で幸せな平穏が続くと思っていた人生が、なんの音沙汰もなく変わってしまった。だからこそ、日常が平凡で幸せな平穏を保っていればいるほど、不安が押し寄せてくるのかもしれない。
そしてそれは、誰にもどうにもしてあげることが出来ないものだ。唯一可能性があるとすれば自殺した夫だけだが、死人に出来ることはない。誰かの慰めは、内なる日本海の荒波にかき消される。いや、それが分かっているのか、特段ゆみ子を慰める者も出てこないのだが。
身近な人間が自殺したら、「どうして死を選んでしまったのか?」と僕もきっと感じるだろう。しかし同時に僕は、「誰だって、ふと死にたくなることがある」とも考えている。はっきりした理由などない。むしろ、はっきりした理由がある方が死ぬのは難しい。「死のうとしている自分」を常に意識しながら死に向かわなければならないからだ。想像しているほど、これは容易なことではない。
だから、ふとした瞬間に、「あ、今なら死ねそう」なんて思考が浮かんだりして、そのまますっと死んでしまうみたいなことは、いくらでも起こり得ると思う。「死ぬこと」はとても難しいからこそ、「世界が一瞬無音になる」みたいなタイミングを捉えてふっと死の方へと足を踏み出してしまうみたいなやり方じゃないと、人って案外死ねないだろうと思っているのだ。
だから、身も蓋もない話をすれば、「死んだ理由なんて考えても仕方ない」と僕は思っている。ただ、そんな風に思える人は、そう多くはないだろう。「自ら死を選ぶ」ということについて「何か理由があるはずだ」という思考に囚われてしまう気持ちも分かる。そしてそんな状態に陥ってしまえば、「自分が悪かったのかもしれない」という考えに行き着くのも時間の問題だろう。
ゆみ子はきっと、そんな想いを抱えながら生きているのだろうし、それはとてもしんどいことだろうと思う。しかし本作では、そのような「しんどさ」はあまり可視化されず、ゆみ子は平穏に生きているように描かれていく。そんな女性の葛藤が、後半からラストにかけてジワジワと染み出してきて、「残された者の難しさ」みたいなものを感じさせられた。
しかし、個人的に結構印象的だったのは、江角マキコが可愛かったこと。僕の中の江角マキコのイメージは四角くて固さを感じさせるようなものだったんだけど、本作の江角マキコは丸っこくて柔らかい印象で、ちょっと驚かされた。特に夫が自殺する前の尼崎での生活を描く場面は、江角マキコの柔らかい雰囲気がとても印象的で、とても意外な感じがした。
正直に言えば、物語的には特に何も起こらないので、退屈と言えば退屈なのだが、「映像の美しさ」は圧倒的で、しかも非常に残念なことに、「その美しい世界は、地震によって失われてしまっている」わけなので、余計に29年前に撮られたこの映像に意味が出てくると言えるだろう。「能登の応援のために」みたいなことを僕が言うと嘘くさくなるので言わないが、「美しい世界が閉じ込められた世界」を観てみるのも良いだろう。ついでに、あなたが支払った鑑賞料の一部が、輪島の寄付へと回るというわけだ。