【映画】「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」感想・レビュー・解説

さて、相変わらず僕は、よく知らない人物のドキュメンタリー映画を見に行くのだが、今回はジョン・ガリアーノ。本作を観る前(正確には「本作の予告を観る前」)の時点で僕は、「ジョン・ガリアーノ」という響きを耳にしたことはあったと思うけど、それが「ファッションデザイナー」とは結びついていなかったと思う。本作で扱われる、彼がキャリアをすべて捨てることになった出来事についても知らなかった。

そんなわけで僕は、「本作で描かれていることしかジョン・ガリアーノについて知らない」ということになる。

そして、その姿はなかなか興味深いものだった。なにせ、「ロンドンでデザイナーとして話題を集めるも、デザインした服は売れず資金難に陥り、その後パリに移って話題をかっさらうも、やはり売上は厳しかったためコレクションを開けないぐらいの状態に陥ったが、支援者のお陰で起死回生のショーを開き『墓場から復活』と評され、その後ジバンシィ、ディオールと有名ブランドのデザイナーに就任、年間32回という尋常ではないコレクションをこなしていた最中、ユダヤ人差別発言で起訴され有罪判決を受け失墜した」という人物である。そしてそんな自身の過去について「洗いざらい話す」と言って、カメラの前でジョン・ガリアーノ本人が語るのである。

実に興味深い。しかも、本作はジョン・ガリアーノを扱う作品なのだから当然と言えば当然かもしれないが、それにしても、ジョン・ガリアーノに関わる者がみな、彼のことを様々な表現で絶賛しているのも印象的だった。「魔法使い」「唯一無二」「あんなデザイナーはいない」「ひらめき方が特殊」「別の惑星で生まれ育ったんだと思う」「ファッション界史上最高の天才」「生ける至宝」などなど、それはそれは様々な表現が登場する。僕はファッションに疎いので、彼がデザインした服を観ても、他のデザイナーと何が違うのか分からないが、とにかく「ファッションの歴史の中でも比較対象が存在しないぐらいの存在」であるらしい。ディオールのCEOで、ジョン・ガリアーノにデザイナーをオファーしたシドニー・トレダノは、「彼と私が成したことは再現不可能だ」と断言していた。

さて、本作は冒頭から、2011年2月24日にパリのカフェ・ラ・ペルルでジョン・ガリアーノが驚きの発言をする様子が収められた映像から始まるので、その辺りの話から触れていこうと思う。

さて、ジョン・ガリアーノにとって、この前後の出来事はかなり記憶が曖昧なのだそうだ。監督から「カフェ・ラ・ペルルでの2件の出来事」について聞かれると、彼は「1件じゃなかった?」と返していた。というか実は、カフェ・ラ・ペルルで起こった不適切発言騒動は実際には3件あったそうなのだが、ジョン・ガリアーノはそれらをすべて「同じ夜」のことと認識していたそうだ。

さて、2月24日に起こったのは、あるアジア系の男性(その時カフェにいた客で、ジョン・ガリアーノのことは知らなかったそうだ)に対しての暴言である。その男性と連れの女性はユダヤ系ではなかったのだが、ユダヤ人だと断定された上で批判されたのだ。この件について男性は警察署で被害届を提出した。

その後、この出来事が世界中で報じられると、被害者の男性は被害届を出したことを公開したそうだ。というのも、「ジョン・ガリアーノの名誉を傷つけようとする嘘」と受け取られたからだ。彼は、「世界中の人に『嘘つき』だと思われたまま生きていけないよ」と言っていたのだが、そこに、彼が「奇跡的」と呼ぶ出来事が起こった。彼が暴言を吐かれた2日後に、なんと、ジョン・ガリアーノの暴言を収めた映像がネット上にアップされたのだ。それが、本作冒頭で流れた映像である。

恐らく、女性がカメラ(かスマホ。当時あったかは知らないけど)で撮影した映像で、そこにはジョン・ガリアーノが、「私はヒトラーが好きだ」「あなたたちのような人間は死んでいるんです」「先祖はガス室送りになっただろう」と発言している様子が映し出されているのだ。もしこの映像が世に出なければ、先の被害男性は「嘘つき」のレッテルを貼られたまま泣き寝入りするしかなかっただろう。しかし、決定的な証拠により、ジョン・ガリアーノは差別発言の罪で逮捕・起訴され、後に有罪判決が下るのである。

そしてもちろん、彼はこの出来事によってすべてを失った。本作は、そんなジョン・ガリアーノの来歴や現在について描き出す作品である。

というわけでここからは、彼の生い立ちからのサクセスストーリーについて触れていくことにしよう。

ジョン・ガリアーノはジブラルタルの出身で、6歳の時にロンドンにやってきた。父親とは英語、母親とはスペイン語で話していたが、ちゃんと英語を学んだのはサウスロンドンに移ってから。向かいの家の中が見えるほど道路が狭く、何もかもが灰色の町だったそうだ。

配管工である厳格な父親と、ファッションに明るい陽気な母親の元で育ち、母親が妹の世話で忙しいため、常に姉にくっついて成長したという。姉は「弟が邪魔するからパーティーにも行けなかった」と言っていたが、一方で、パーティーに着ていくドレスを作ってくれたりもしたという。姉は、「食事も呼吸も人生も、すべてファッションのためだった」と表現していた。

しかしそうなったのは恐らく、セント・マーチンズに通うようになってからだろう。倍率の高い美術学校だったが、合格し助成金ももらえたそうだ。子どもの頃から絵を描くのが好きだったようで、当時は周りがサッチャーへの抗議デモに参加する中、1人絵を描いていたという。

大学に入学した頃のジョン・ガリアーノは、後の姿からは想像できないほど内気だったそうだが、同級生のデヴィッド・ハリソン(後に画家となった)が彼を変えた。彼はセックス・ピストルズのメンバーに誘われるくらいの派手さや交友関係があり、ブランドの服ばかり来ているジョン・ガリアーノにヴィンテージを教えたり、オールド・コンプトン通りにパブに連れて行ったりしたそうだ。そこでジョン・ガリアーノは「こんな世界があるんだ!」と衝撃を受け、一気にのめり込み、勉強も兼ねて国立劇場の衣装係の仕事に就いたりもしたのである。

さて、彼は子どもの頃から「ゲイ」だという自覚があったそうなのだが、それは隠していたという。厳格な父親やスペイン文化が、それを許容するはずがないと分かっていたからだ。時々バスルームに閉じこもっては、母親の化粧品を使ってメイクをしたりしていたが、バレなかったという。またある時は、父親がいる前で「彼ってゴージャスだね」と言ってしまったことがあるという。その時は特に何もなかったようだが、恐らく彼は一層気を引き締めることにしただろうと思う。

「人と違う」ことは分かっていたし、でもそれを表に出すことも出来ないため、彼は子どもの頃から「空想の世界」に浸るようになった。架空の人格を作り、空想の世界の中で生きたのである。「空想の方が幸せ」だと彼は言っていた。多くの人物が彼のデザインについて、「常に『逃避』がテーマになっている」と指摘していたのも、そんな子ども時代があってのことだろう。

そしてそんな空想の力が発揮されたのだろう、セント・マーチンズの卒業制作が大いに話題になった。それは校内に留まらず、ファッション誌の編集者も絶賛するほどのものだった。作中に登場したある編集者は、「私がこれまでに観た中でトップ5に入る」と言っていた。「卒業制作のトップ5」なのか「コレクションのトップ5」なのかはよく分からないが、とにかく凄まじく話題になったそうだ。

ジョン・ガリアーノが「レ・アンクロワイヤブル」と名付けた卒業制作は、フランス革命をイメージしたものだった。そこには、アベル・ガンス監督の伝説の映画『ナポレオン』の影響がある。この映画にもの凄く感銘を受けてリサーチを始めたのだそうだ。本作中には時々、古い映画らしき映像が挿入されるのだが、恐らくこれは映画『ナポレオン』のものなのではないかと思う。

この時のジョン・ガリアーノはとにかく絶好調だったようで、「右手で描くとあまりにも簡単に描けてしまうから、左手で羽ペンを持ってイラストを描いていた」みたいなことを言っていた。そしてそんな卒業制作は絶賛され、「天才が現れたと思った」と評されることになる。

それからあれよあれよという間にジョン・ガリアーノの名前はイギリスで知られるようになる。DJのジェレミー・ヒーリー(ヘイジ・ファンテイジー)は、当時付き合っていたモデルから「凄い人がいるから来て」と言われてショーへ足を運び、「頭に生魚をつけたモデルがランウェイを歩き、その魚を客席に向かって投げている」のを観てあごが外れるかと思ったそうだ。その後彼はジョン・ガリアーノから「是非組みたい」と声を掛けられ、ショーで彼の音楽を使うことにしたそうだ。

こうして、セント・マーチンズを卒業してたった3年で、ジョン・ガリアーノはイギリスで注目の的となった。1987年にはブリティッシュ・デザイナー賞を受賞している。しかし彼は、決して商売は上手くなかった。「至高の美を追い求めたい」「夢を描き続けたい」と思っていたのだが、ジョン・ガリアーノがデザインする服は「着こなすのが難しい」とあまり売れなかったのだ。ショーは常に話題をかっさらうのだが、服が売れないため経費ばかりがかさみ、商売的にはまったく上手くいっていなかった。当時彼と組んでいた人物は、「金の話をすると『君はファッションのことを何も分かっていない』と言われたので縁を切った」と言っていた。

しかしそれ以上に問題だったのは、コレクションを終える度にジョン・ガリアーノが壊れてしまうことだった。その様は、近くにいる者には明らかだったようである。凄まじい創造力を常に出し続けることに、心が疲弊していたのである。このことは、その後もずっと彼を苦しめることになる。

さて、イギリスでは出資者を見つけられなくなったジョン・ガリアーノは、1990年、パリを目指す。ファッションの本場で勝負してやろうというわけだ。そして、パリに拠点を移したことで、彼はスティーブン・ロビンソンという相棒と出会った。性的な関係はなかったが、ある人物は彼らの関係を「共依存」と評していた。ジョン・ガリアーノは彼のことを「天使」と表現し、「雑務をすべて引き受けてくれたから、創作に集中できた。僕のことを助けるという使命を持って生まれたのだと思う」みたいに言っていた。スティーブンの献身は周囲の人間も認めるところだったようで、人によっては彼を悪く言うこともあったが(話を聞いていると、まあ仕方ないかという気はするが)、「共依存関係にある」という点を除けば、彼らの関係性は非常に上手くいっていたようだし、周囲もそのように見ていたようである。ある人物はスティーブンのことを「ジョン・ガリアーノが唯一心を許す人」と表現していた。

そして、そんなスティーブンの献身もあって、ジョン・ガリアーノはパリでも大成功を収めることになる。本作には様々なモデル(ナオミ・キャンベルやケイト・モスみたいな、僕でも知っている人も多数)が出てくるのだが、彼らはジョン・ガリアーノのショーの特異さについて、「ステージ上で役割が存在する」みたいに表現していた。

ケイト・モスは、ジョン・ガリアーノのショーに出た時にはモデルになりたてだったそうだが、ジョン・ガリアーノから「君はヤリたがってる」という役柄を与えられたそうだ。ウォーキングさえ初めて習ったみたいな状態で、さらに「ヤリたがっている女性」を演じる必要があるので大変だったそうだが、それが良かったそうだ。彼女は後にジョン・ガリアーノに結婚式のドレスを依頼するのだが、結婚式当日にも「今日の役柄は?」と聞いたとジョン・ガリアーノが語っていた。

そもそもジョン・ガリアーノのショーには必ず「物語」が存在するという。あるモデルは「岸に流れ着いた設定」が与えられたそうだが、そこには「裕福な家から逃げ出し船に乗って逃げている」みたいな状況設定が存在するのだという。そしてここにも「逃避」がテーマになっていたのである。あるモデルは、「モデルを心の旅に連れ出してくれるから、皆興奮させられた」と言っていた。

しかし、ジョン・ガリアーノはショーは常に成功するのだが、やはり売上が伴わず、時には生地を買う金さえ無くなるほどだったという。監督から「食べていけなくなると考えたことはあるか?」と聞かれ、「ある」と答えている。それもあってだろう、彼は酒癖が悪くなり、ある人物は「飲み屋のステージの端っこで小便をしているのを見た」と証言していた。
「よほど不幸なんだろう」とも語っており、ステージ上での成功とはかけ離れた状況にあったという。

しかし、そんな状況を見かねたアンドレ・レオン・タリー(詳しく知らないが、ファッション界で大きな影響を持つ人物)が、「ジョン・ガリアーノが生地を買う金さえ無いなんてあり得ない」と訴え、支援を申し出た。彼は、「女性の服装や考え方を変えるような天才デザイナーは希少」「ジョン・ガリアーノは、そんな天才の1人だ」と、彼を絶賛していた。

そしてアンドレのお陰で、不遇をかこっていたジョン・ガリアーノが表舞台に出ることが出来るようになった。資金を集め、さらに裕福な社交人に「使っていない豪邸をジョンのために貸してくれ」と頼んだことで、ジョン・ガリアーノは「個人の邸宅でショーを行う」ことになったのである。そしてそんなショーに、これまでジョン・ガリアーノと関わったことがあるモデルたちがノーギャラで出演を快諾した。そこにはナオミ・キャンベルも含まれており、彼女は「心の底から開催を願っていた」といって、ストッキングやアクセサリーを自前で持ち込んでショーに臨んだそうだ。

こうして行われた「ブラックショー 1994年秋冬」は大成功を収めた。その際にジョン・ガリアーノがデザインしたスリップドレスはその後10年間流行したという。また、個人の邸宅で行ったことで「観客の目の前をモデルが歩く」ことになり、それによって、香水の匂いが届いたり、布が擦れる音が聴こえるなど、より臨場感のあるショーに仕上がったのだそうだ。こうしてジョン・ガリアーノは新聞に「墓場から蘇る」と報じられるような復活劇を果たすことになる。

その後の展開については、ジョン・ガリアーノも衝撃を受けたそうだ。なんと、50以上のブランドを保有するベルナール・アルノーから、傘下のジバンシィのデザイナーを依頼されたのだ。しかし、この決定には批判が殺到した。「パリの伝統に疎いよそ者」「新参者のイギリス人」「配管工の息子」「野生児はクチュールで成功できるのか?」と散々な批判を浴びたのである。ファッション界は誰もが、「ジョン・ガリアーノは失敗する」と考えていたそうだ。

しかし、アンデルセンの絵本から取られた「えんどう豆の上にねむったお姫さま」という名のジバンシィのコレクション(1996年初夏)は喝采を浴び、「あの時誰もが彼を認めた」というほど称賛された。そしてこのショーを機にジョン・ガリアーノは、ディオールのデザイナーへと大抜擢されるのである。

そんな彼は不適切発言の前にも、パリを騒がせる事態を引き起こしたことがある。「ホームレスをバカにした」として非難を浴びたのだ。この件について説明するためだろう、本作では前段階でいくつかの説明がなされていた。

あるモデルはジョン・ガリアーノの凄さについて、「高級感と低俗感のバランスが素晴らしい」と語っていた。彼の手に掛かれば、マーケットで買ってきた、変なデザインの安物のトレーナーさえも傑作に変えてしまうのだという。また別の人物は、「寄せ集めの要素をつなぎ合わせているようにしか見えないのに、そこから見えるビジョンには統一感がある」と絶賛していた。

さらに、次の点が最も重要なのだが、ジョン・ガリアーノは「あらゆるものからインスピレーションを得るが、その背景を見ることはなく、表面しか捉えない」のだそうだ。もちろん、「ビジョンに統一感がある」のだから、無意識の内に背景も捉えているのかもしれないが、少なくともジョン・ガリアーノを知る者には、「目に映るもの」だけが彼のインスピレーションを刺激するのだと認識されているのである。

そしてそれ故だろう、彼はチャップリンに着想を得たショーにおいて「セーヌ川沿いの人々(ジョン・ガリアーノはホームレスをこう呼んでいた)」のことも取り入れることにしたそうだ(詳しくはないが、何かチャップリンと取り合わせが良かったのだろう)。彼はホームレスをバカにするつもりなどなかったのだが、彼のショーがそのように受け取られ、パリの街で「ガリアーノのクソ野郎」「正式に謝罪すべきだ」という抗議の声が上がった。ジョン・ガリアーノはとても戸惑ったという。「新聞紙をドレスにしてみたらどうなるのか試したかったんだ。それは美しい案だった」と、自身の美的意識から来るアイデアだったと説明していた。

しかし、そんな批判はありつつも、ジョン・ガリアーノの名声はどんどん高まっていく。彼がデザイナーに就任してから売上は飛躍的に伸びたし、「デザイナーというより芸術家だ」というような評価も出てくる。また、当時はまだ決して大きくはなかった業界の黎明期に現れ、業界の成長と共に彼の才能も咲き誇るというタイミングも味方し、ジョン・ガリアーノの評価は最高潮に達したと言っていいかもしれない。

しかしそれ故に、プレッシャーも凄まじかった。毎回斬新なアイデアを出すことを求められるし、そもそもだが彼は、酷い時には年間32回もコレクションを受け持ったのだ。年に32回ということは、1ヶ月に3回ぐらいやらないといけないことになる。ほぼ、週1ぐらいのペースというわけだ。そりゃあ頭もおかしくなるだろうという気がする。

ジョン・ガリアーノは次第に、酒と処方薬の依存症になっていく(作中では「仕事にも依存している」と指摘されていた)。この頃のジョン・ガリアーノについて、その”奇行”を多くの人が語っていたが、ある人物は「裸のライオン」の話をしていた。あるホテルのエレベーターで裸になり、乗ろうとする人に「俺はライオンだ!」と4時間ぐらい言い続けていたというのだ。彼はそのホテルを出禁になったし、そんなホテルは20以上存在したそうだ。

さらに追い打ちを掛けるように、激務に耐えかねた「唯一の理解者」であるスティーブンが38歳という若さで亡くなってしまう。まともな状態ではなかったが、彼は仕事を続けた。尋常ではない仕事量を、まともとは言えない状態でこなし続けたのだ。

そうして彼は、2011年2月を迎えることになる。ラ・ペルルでの不適切発言だ。そして彼はすべてを失う。

そしてそこから13年後の2024年、彼はカメラの前ですべてを話す決断をするのである。

さて、映画の後半では「ジョン・ガリアーノはレイシスト(人種差別主義者)なのか?」という話になっていく。この点に関しては意見が大きく分かれていた。一般的にはやはり、「ユダヤ人に対する差別感情があるのだろう」と受け取られると思う。しかしジョン・ガリアーノと直接関わったことがある者ほど、「彼はそんな人間じゃない」「依存症だったことがすべての原因」と認識しているようだ。ナオミ・キャンベルはインタビューの中で、ジョン・ガリアーノが暴言を吐いている映像を見たかと問われ「見たことはない」と言い切っていた。「彼のことは知っているから、見る必要はない」と。

この点に関しては正直、他人がとやかく言うことではないのだが、「ジョン・ガリアーノが尋常ではない仕事をこなしながら心身ともにすり減っていた」という本作の描写を追っていくと、「深層心理の中で『この状況から逃れたい』と思っていたのではないか」みたいに感じられた。つまり、「このしんどい状況から抜け出すための”手段”として暴言を吐いた」のではないかと思うのだ。それが意識的なものなのか無意識的なものなのかは分からないが、少なくとも僕は、「ジョン・ガリアーノがすり減った状態にいなければ、暴言は吐かなかったのではないか」と思っている。

もちろん、本作で問題になっているのは「内心」であって「行為」ではないのだと思う。つまり、「仮に差別発言をしなかったとしても、差別的な意識を持っていればダメ」というだけだ。そういう判断をするのであれば、「すり減っていなければ暴言は吐かなかっただろう」という指摘は特段何の意味も持たないだろうと思う。

ただ僕は、「『内心』のことなど誰にも分からないのだから『行為』で判断されるべき」だと考えている。そしてジョン・ガリアーノは、「暴言を吐く」という行為を行ったのだから断罪されて然るべきなのだが、しかし、「その行為を反省している」という姿も垣間見えるので、そういう意味では許容される余地はあるんじゃないかとも思うのである。まあ、この辺りはとても難しい問題だとは思うが。

さて、本作ではちょっと触れられていた程度の話だったのだが、彼の復帰に関してある女性編集長が辛辣なことを言っていたのが印象的だった。ジョン・ガリアーノはNYで復帰を果たすのだが(結果としてそれは、ジョン・ガリアーノの”不手際”で大失敗に終わるのだが)、そのことについてその女性は、「彼を支援する有力者は多かったし、何より、彼は白人男性ですからね」と言っていたのである。要するに、「白人社会では、白人男性の行為は大体許される」という皮肉である。

まあ、その発言を帳消しにするかのように、本作ではその直後、アンドレ・レオン・タリーと共に不遇だったジョン・ガリアーノを支援した『VOGUE』の女性編集長のインタビューが挿入される。監督から「(差別発言後の)ジョン・ガリアーノを支援することに危険だとは思わなかったですか?」と問われた彼女は、きっぱり「NO」と答えていたのである。これはきっと、「白人男性だけが彼を支援していたわけではない」という要素として組み込まれているのだろう。もちろん、ジョン・ガリアーノと関わりのあるモデルたちも変わらず彼を支援している。「白人男性だから」という指摘がどこまで的確なのかはなんとも言えないが、確かに、まったく同じ状況に白人女性が陥った時に、ジョン・ガリアーノのように復活できるかはなんとも言えないようにも思う。この点もまた、難しい問題だ。

さて、最後に「天才」に対する僕の考え方に触れてこの記事を終えよう。

僕は、「ユダヤ人に対する差別発言」は言語道断で非難は当然だと思うが、一方で、ある一定の範囲内であれば「天才は自由に生きれた方がいい」とも思っている。犯罪行為まで許容しろなどと言うつもりはないが、「一般人なら許されないことでも、天才なら許されてもいい」という感覚が僕の中にはある。ジョン・ガリアーノもまさに、そんな人物の1人であるように思う。

そしてその上で大事なことは、「そんな天才をサポート出来る人物がいるかどうか」である。ジョン・ガリアーノには、ショーの準備に関してはスティーブン・ロビンソンという「相棒」が存在したが、もっと広い意味で、彼の人生全般をサポート出来る人がいたら良かったんじゃないかと思う。彼にはある時点以降アレクシスという恋人(ディオールのセレブ担当だった)が出来たし、彼からはかなり精神的な支えを得ていたようだが、そうではなくて、マネージャー的な感じで彼を管理・サポート出来る人がいたらもっと違ったんじゃないかと思う。

もちろん、ジョン・ガリアーノ自身が「仕事に依存していた」とも指摘されていたので、マネージャー的な存在がいたとしても難しかったかもしれないが、「仕事に依存する」という状態に陥る前からサポートがあれば、もっと違ったようにも思う。本作では、ジョン・ガリアーノの「そりゃあダメだろうよ」と感じるような言動が色々出てくるのだが、それらに対して「止めた方がいい」と忠告する人物がいなかったのだろうし、それ故にトラブルが色々起こってしまったのだと思う。まあ、「止めた方がいい」という忠告をジョン・ガリアーノが受け入れたかどうかはまた別の話ではあるが。

天才には天才にしか出来ないことがあるのだから、そんな天才が「社会」と適切に接点を持つことが出来るような役割の人物が、やはり天才の周りには必要だと思うし、ジョン・ガリアーノの不幸はその点にあったようにも思う。いや、繰り返すが、差別発言についてはジョン・ガリアーノが悪いし、別にそれを擁護したいわけでは全然ないのだけど、サポート的な人がいればもう少し違ったんじゃないかとも思う。

そんなわけで、様々な捉え方が可能なジョン・ガリアーノという複雑な人物像を映し出すドキュメンタリー映画であり、僕のようにファッションについてまったく詳しくない人間でも面白く観れた。ちなみにジョン・ガリアーノは現在、マルタン・マルジェラのデザイナーとして復帰を果たしているそうだ。それまで以上に演劇感の強いマルタン・マルジェラのショー「シネマ・インフェルノ」の様子も映し出されていたが、ファッションショーとしてはもの凄く斬新に見えたし、世間的にもそういう評価であるようだ。創作力は衰えていないということだろう。そんなわけで僕は、「天才にしか出来ないこと」をやってほしいと思う。もちろん、過去の行いを反省し、彼なりの償いをし続けつつということになるが。

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